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霧の宴    ミラノⅣー1                    うたげ

*12月アンドレア&エリア主催のコンサートシーズンの開幕。新年に設定されているジュリア―ノ公爵邸でのコンサートがあることからクレリア夫人もオープニングに出席し、その紹介がある。
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  深い霧がミラノをすっぽり覆ってしまう十二月の第二土曜日の夕方に、
アンドレアとエリアが主催するコンサートのオープニングセレモニーは開かれた。
 既にその年のスカラ座のオペラシーズンは、ミラノ市の守護聖人アムブロージョの記念日十二月七日にオープンしていた。
 その年のアンドレアとエリアのコンサートシーズンの初日を飾ったのは、度々スカラ座で重要な脇役を歌うバリトン歌手とソプラノ歌手ミシェルの、十九世紀のイタリア&フランス歌曲でプログラムが組まれていた。
 以前マリアムは、リヨン出身のミシェルとG.B.ペルゴレージの<スタバト マーテル>をベルガモのドゥオ―モで歌ったことがあった。素晴らしく繊細な音楽感覚の持ち主で、マリアムのフランス語の教師でもある。特別な美声とは言えないのだが、彼女の音楽感覚は、声の貧弱さを少しも感じさせない程優れていた。フランス領事館主催のコンサートで彼女が演奏したC.ドゥビュッシーの<ビリティスの三つの歌>に魅せられたのを、マリアムは記憶に留めている。
 オープニングのセレモニーは例年のホールで催されたが、今シーズンは
一月に入ってから四回のコンサートをジュリア―ノ公爵邸での開催に決まっていた。それで、ジュリア―ノ公爵夫人もオープニングのセレモニーに、その姿を現した。夫人がアンドレアとエリアに協賛するという形になったので、公爵家にゆかりの有る人々も出席することになり、その夜は例年とはかなり異なった雰囲気になっていた。
 シムプルなデザインの、明るいシルヴァーグレイのサテンのローブソワレをさりげなく纏ったその夜の夫人は、見事なエメラルドのデコルテがほっそりしたうなじを気品に満ちて優しくひきたて、たいそう気高く美しかった。
 マリアムは、クレリア夫人を取り巻く公爵家の知人やアンドレアたちから離れて、同僚の舞台俳優アドリアーノの隣に座った。
「由緒あるサングエ ブルー(貴族)とはいえ、何と気品のある方だろう!」
アドリアーノはクレリア夫人を見ながら感嘆した。
「あの方は、サルヴィア―ティ家のご出身なのよ」
「トスカーナの?」
「ええ、そうなの」
「うーん、それじゃ五百年以上も続く名家じゃないか!」
 アドリアーノは目を丸くした。
「ご自分ではおっしゃらないけれど、出身家の紋章を見て、もしかしたらと思い公爵に伺ったら、やっぱりそうだったわ」
「年齢を重ねてからも、あんなに美しい人も珍しい。最近では貴族と云っても結構品のない人もいるというのに、あの方は雰囲気が美しいと云か、、、実に優雅だ、ひと昔前の貴族の品格を備えている」
 アドリアーノはクレリア夫人から目を離そうとしなかった。
  やがてアンドレアが、その年のコンサートシーズン開幕の挨拶をしたが、その中でジュリア―ノ公爵夫人の紹介があった。
 会場にその姿を見せた時から、気品のある美しい物腰が醸し出す優雅な佇まいは、毎年このコンサートに出席する人々の好奇の目を惹き付けていたが、アンドレアの紹介があると会場は一瞬騒めいた。
 その夜、ミシェルはHベルリオーズの<夏の夜>を歌った。洗練された感性から生み出される表現が、H.ベルリオーズの世界を魅惑的に再現して、マリアムはうっとりと聞き惚れ、ミシェルの才能に感服しているのを見たアドリアーノは
「ともかく、美人であることはだけは間違いない」と茶化し気味に言った。
 ミシェルのために、その夜マリアムが用意したグレイの影を芯に落とす冷たい彩色のピンクのバラは、彼女の深いグリーンのタフタのローブにぴったりと調和した。
「まあ、みごとだわ!ありがとう!私のローブの彩を貴女は前から知っていたみたいね」
マリアムを抱擁し頬にキッスしながら、ミシェルは続けた。
「貴女がM.ラヴェルを歌うというので私、ものすごく興味があるのよ」
「だめだめ、貴女には聞かせられないわ、絶対に来たらいやよ!」
「何言ってるの、私と貴女の仲じゃないの」
「それでもダメ、貴女が来たらわたし歌えなくなっちやうもの」
「私は貴女のフランス語の先生じゃないの。だから弟子のフランス語の出来具合を聴く権利があるでしょう?」
 ミシェルは笑いながらマリアムを脅かしていたが、急に真顔になり
「あれは難曲よ、なかなか歌う人がいないでしょう、特にコンサートでは、、、、私もコンサートでは歌ったことがないのよ」
「いやあねえ、そんなこと言ったら益々歌えなくなっちゃうじゃないの」
「ううん、貴女は声に関しては問題はないわ、要は文学としてのJ.ルナールを、どのようにしてM.ラヴェルの音楽に再現させるか、ということ。演劇人の貴女のことだからJ.ルナールの文学として、彼の描く自然の臨場感と、時には懐疑的で冷ややかでありながら、その奥に潜む繊細な感性を伴った人間性の複雑さを表現することはお手の物だとは思うけれど、、、場面描写を表現しているフランス語の選択には秘密があるのよ。簡素で、無駄な形容詞が全く無いでしょ?そこが問題なのよ。其々の読者に想像の空間を与えているのだけれど、M.ラヴェルがさらに拍車をかけている、と私は思う。貴女のことだから、きっと演劇的で個性的なものになると思うけれど、先ずは、J.ルナールのフランス語を完璧にしなければならないわね」と、フランス語訛りの-R-で云った。
 その夜のレセプションで、マリアムは一緒にA.ヴィヴァルディを演奏することになっているクレリア夫人の従兄弟とその友人達に紹介された。
 クレリア夫人の従兄弟は、若かりし頃、トリエステの音楽院をヴィオロンチェッロで卒業した人で、本業は弁護士ということであった。
其々皆立派な紳士たちであったが、オルガンを弾く眼科の医者が、数年前までミラノ近郊の病院長であったことから、アンドレアは特別な親しみを感じたらしかった。古今東西を問わず医者に音楽愛好家が多いのは、何か理由があるのだろうか?
「マエストロ エガッティが指揮を引受てくださるそうだ」とアンドレアが言った。
「マエストロは、ヴィヴァルディの研究者でもあるし、もう何回かアルキの練習に立ち会って下さっているが、かなり満足しておられたよ」
                 つづく


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