阿修羅ちゃん            アイロニー      羽生結弦 Ⅹ              

 さらっとしたウイットに富んだ会話というのは、アングロサクソン系の人種にはごく普通らしいが、ヨーロッパでもラテン系になると少し意味合いが変わってくる。フランス系は他者を嘲笑う高慢さを含み、イタリア系は自嘲する明るさがあるが、それでもアラブ系の血が流れている極南部では大げさに言えば、うっかりしたじゃれ口は、間違えば殺し合いになりかねない。スペイン系にも、気軽にしゃれたアイロニーやセティリカルな意味合いを交えた会話は、避けた方がいいようである。
何れにしても、ある程度の教養を身につけ、社交的礼儀をわきまえた人々の間であれば、洗練されたサルカズムが少々込められていても、そのユーモアはさらりと受け止められ、さらりと受け流されて爽やかに会話は盛り上がる。ウイットに富んだ社交のテクニックである。これは、お互いを尊重しながら、社会形態の平穏なバランスを保つ人間界に必要不可欠なルールではないか、と私は思う。
生真面目な日本人は社交下手、と言われているが、何よりも機知に富んだユーモアのセンスが不足しているためであろう。知人の実業家によれば、夫人同伴の夕食に招いても、仕事以外の話題がない日本人には驚かされるとのことであった。ビジネスを離れて、共通の話題や趣味などの雑談をしながら食事を楽しみつつ、ご婦人方共々より親交を深めるということが日本人は苦手のようである。
 
 「人は、圧倒されるような失意と苦悩のどん底に突き落とされると、絶望するか、さもなくば哲学かユーモアに訴える」「人生はクローズアップで見れば悲劇、ロングショットで見れば喜劇」 C.チャプリン
「ユーモアの中には、常に苦痛が隠されている」S.A.キェルケゴール
 羽生結弦の<阿修羅ちゃん>に、私はとんでもないサルカスティックなユーモア―を感じて、見るたびに笑いが込み上げてくる。よくもまあこんなにヒトをおちゃらかして、と声を出して笑うこともある。私の笑いは自嘲なのであるが、そのサルカズムの小気味よさをカラリと肯定して降参し、そうそう、そうなんだ!と自分を嘲笑う。
皆さんはあの見事なスケイトのテクニックをふんだんに駆使して、意味深長なアイロニーをさらりと演じてみせた若干28歳の羽生結弦という稀代の天才の演技をどのように受け止めたのであろうか? 恐ろしいほど鋭い感覚と叡智に富んだ人である、と私は感服した。
”人間てこんなとこもあるよねェ”と彼はアッケラカンと、切れ味の鋭い身のこなしで舞って見せる。人々は、彼の見事なテクニックや美し舞いっぷりに見惚れて魂を持っていかれてしまった。そしてフィナーレに近づくと、彼は片膝の上に組んだ腕にのせた顔を傾けながら”こんなところでどう?”とニヤリとする。人々はもうどうすることもできない。彼の痛快なアイロニーに気付く余裕もない。まったくもって小憎らしいヤツである。
 旧態依然とした昨今のフィギュアスケイト界(勿論日本を含む)においては、羽生の演ずる<阿修羅ちゃん>は、感覚や脳神経が硬化している御仁たちには到底受け入れられない、最も理解不可能なジャンルであったに違いない。それは、百年ほど前にV.ニジンスキーの、C.ドゥビュッシー<牧神の午後への前奏曲>に始まる、一連の意表を突いた斬新的な作品の振付が、当初世間には全く理解されなかったのに酷似している。V.ニジンスキーはそれまで彼自身が踊っていた、人々が愛してやまなかった「伝統的な美しいスタイル」のダンスに挑戦を試みた、もっと内的な、自身の内に宿す”本能的美”に忠実な演技を試みた。やがて時間の経過とともに彼の意図は理解され、持て囃され、後にM.ベジャールという20世紀最大の振付師に継がれていった。
おそらく、羽生結弦の、彼独自のスケイトのテクニックでなければ実現不可能であろうと思われる、ハイブロウな創造の世界は、同じ氷上の仲間たちにとっても今は、ほんの一部の人々にしか理解されないに違いない。
それ程彼は、傑出した逸材なのである。

                    M.Grazia T.


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