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霧の宴 ミラノⅡ             アンドレア                 

 「マリアム、、、、、どうしたの、マリアム?!」
アンドレアは訝しげに彼女を見下ろし、驚いて少し女性的に云った。
「どうしたというの?具合が悪いのかい?こんなにやつれて!君は、僕が医者だってことを忘れているの?」
 その時、最大限に張りつめられていた神経の弦がㇷ゚ツリと切れた。
何か言おうとしたが、ありふれた挨拶の言葉さえ失って、身体の底から湧き上がる不思議な感覚に襲われ、それが涙となって溢れ出た。R.ワグナーxC.クライバーの嵐が充満する劇場の中で、マリアムは身体の芯が崩れ落ちてゆくのを感じた。
 アンドレアは熱狂する群衆を搔き分けながら、彼女を小脇に抱えるようにして外に連れ出した。冷ややかな夜の空気が心地よかった。
ふと、アンドレアは歩を止め、上着のポケットからハンカチを取り出してマリアムに差し出し「鼻をかみなさい」と云った。それから、無言で車を止めてある駐車場まで歩いて行った。
 車の座席にマリアムを座らせてから、涙の止まらぬ彼女の頭を自分の胸にもたせ掛け、途切れ途切れに口をついて出る彼女の支離滅裂な言葉を、アンドレアは黙って聞いていたが、少し落ち着きを取り戻すのを待ってから、小児科の医者が子供の患者に話しかけるあのやり方で、ゆっくりと云い含めるように言った。
「君はひどく疲れている、身体も神経も、食事をちゃんと摂っていないのでは?こんなに瘠せてしまって、、、絶対に休息を取らなければいけない」
 アンドレアは暫く何かを思案しているように沈黙していたが、やがてゆっくりと重々しい口調で云った。
「環境を変えなけでばならない。暫く何もかも忘れて休養に専念しなければならないと思うのだ。ミラノを離れてどこかへ行きなさい、湖とか山とか、
僕は山がいいと思うが、、、、そうだ、良いことを思いついた。僕の山の家が良い。スイスとの国境に近いところなんだ。山の中腹にサナトリウムがあってね、僕の親友が院長をしている。そこからあまり遠くない所に僕の家があるんだ。カルラ夫婦が家の管理をしてくれている。カルラは僕が子供の頃から一緒に育ったようなもので、兄妹同様の間柄さ。彼女はとても料理が上手なんだ。
山の中の小さな村で、空気がとても美味しい。アッダ川の支流で、よくカルラの夫が天然の虹鱒を釣ってくるんだ。二人共とても良い人達だから、
安心して君を預けることができる。明日の朝早くカルラに電話をしておくから、明日の午後早い時間に発ちなさい。僕が同行できれば一番良いのだけれど、君も知っているように、それは不可能だ。
だから、中央駅からソンドリオ迄電車に乗り、その後はカルラの夫に車で迎えに来てもらうように伝えておこう。
ソンドリオからは、車で一時間以上山に入らなければならないからね。
君は、日中は太陽が出ている限り、戸外で過ごさなければいけない。食事はカルラが作ってくれるし、先ずはゆっくりと眠れるようになるまで何もしないで、ぶらぶら歩きをしなさい。初めは少し難しいかもしれないから、軽い睡眠導入剤を処方してくれるように友人に電話をしておく。散歩がてら、山の病院にとりに行ったらいい。
 あゝ、それから五月といっても、山はまだとても寒いから、特に朝晩はね、冬の衣類を用意すること。本は軽い推理小説まで、音楽は聴くことも当分はお休みにする。自分の体調と相談しながら、神経が休まる条件を作り出す努力を、自分でしなければならない。それができる人だと、僕は君を信じているよ」
 アンドレアはマリアムを家まで送ったが、別れ際に「君は気が付いているだろうか?僕には確信がある。僕たちは同じ魂を共生しているのだ」と云った。

 アンドレアの山荘は、スイス国立公園を背にした南ティロル風の典型的な造りであった。南に面したサロンからは、家々が点在する集落が見下ろせる山の中腹である。
カルラがマリアムのために用意してくれた二階の寝室の窓からは、直接声をかけられるほどの距離に、カルラ夫婦が住んでいる独立した家があった。
 タイムスリップしたような古い木造の家には、南側に大きなテラスがあり、まだ蕾をつけていないゼラニュウムの大きな鉢が、冬の間の凍結から守るためのシートを冠ってずらりと並べられている。
 山の春はまだ浅く、夕暮れ時の戸外は透明な空気が頬をさすように冷たかったが、明るく心地よいサロンのメインテイブルの中央に大きなラリクの鉢があり、それに活けられている大量のスズランの香りが、マリアムの神経を和ませてくれた。
「お昼にドットル マーニが寄りなすって、お薬とスズランを置いて行きなすった。ドットーレのお話では、今日はとてもお忙しくて時間がないので、明日ゆっくりお目にかかるとのことです。お薬と一緒にお手紙がここにあります」
 カルラはいつもニコニコ日焼けした丸い顔をほころばせ、健康ではちきれそうであった。
 ドットル マーニの手紙には、薬の摂取の指示と、今日会えないことの詫びのほかに、自宅の庭に咲いているスズランをアンドレアの要望で持ってきた、と記されていた。
 午後も遅い時間に着いたので、カルラはサロンの暖炉に火を焚いてくれていたが、「夕食は八時にお持ちします」と云った。
マリアムは独りで食事をする気分ではなかったので、もし迷惑にならないようなら、そちらで一緒にさせてもらえないだろかと云うと、カルラは急に親し気になり「勿論ですとも、喜んで!」と満足して云った。
 その夜、十時過ぎにアンドレアから電話があった。旅はどうだったか、家は気に入ったか、室温は充分か、解らないことは何でもカルラ夫婦に聞きなさい、睡眠導入剤は、ドットル マーニの指示を絶対に守ること、決して自分流に量を増やさないこと、もし今夜眠れなかったら、明日彼に相談しなさい、と終始一貫して医者の患者に対する指示であった。
「スズランをありがとう」
「君があの花を好きなのを、僕はちゃんと知っていたのだよ。さあ、薬を飲んでベッドに入りなさい。ミラノの友達たちは皆、君をとても心配しているのを忘れないように」と云ってから
「Ti abbraccio stretta stretta. Buona Notte!  君を強く強く抱きしめる、お休み!」と電話を切った。
 その夜は、睡眠導入剤の効果はなく、眠りに陥ることは容易ではなかった。明かりを消して目を瞑ると、脳裏にマエストロ C.クライバーに操られるR.ワグナーの嵐が襲いかかり、切り立った岸壁に激しく打ち砕ける大波の中に巻き込まれてゆく自分の姿の幻影に惑わされた。毎夜のようにその幻影は現れマリアムを苦しめたが、ドット―ル マーニは薬の量を増やすことを固く禁じた。
 サロンから見える向かい側の山は未だ雪を冠っていたが、日中は太陽が出れば暖かく、緩やかな傾斜の広い庭に生える”キチガイサラダ”とか”獅子の歯”とこの地方で呼ばれている幼いタンポポを、カルラを手伝って抜いたり、カルラの夫と一緒に虹鱒釣りに出かけたり、独りで近くの山を散策したり、日曜日には村の小さな教会のミサにカルラ夫婦と共に列席した。
 そのような日々を過ごしているうちに、マリアムの体調に少しづつ変化が現れ、軌道を外れかけていた神経がゆっくりと正常に戻り始める兆しが見えてきた。

 サロンの一角に、アンドレアが子供の頃から使っていた古いセミグランドのピアノが置いてあったが、その蓋を開ける勇気は、未だマリアムに無かった。音楽から暫く距離を置くように、とアンドレアに言われていたせいもあったが、何よりも彼女自身の意識の底に、音に対する或る種の恐れが潜んでいたからに違いない。その恐れとは、それに打ち負かされたい、という深層意識の内部から湧き出る自虐的な恍惚であった。それをマリアムは恐れた。
ディオニソスの美の饗宴に身を委ねるには、その頃の彼女は余りにも未熟であった。
 毎夜十時にアンドレアは電話をしてきたが、私的な話しに至ることは殆どなく、常に医者から患者への問診と助言であったが、或る時、何時もの淡々とした会話の後で「君の赤いバラは枯れてしまったけれど、僕はデスクの引き出しに大切にしまってあるよ」と云った。
          つづく




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