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霧の宴   ミラノⅣー5                 うたげ  La Bohème

*20世紀後半期のオペラリリカに関する其々の好みに発するバトル
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「ピエロ カップッチッリのマルチェッロ役は、ごく自然に偶発的なところがいいね。実に自由で偶発性が活きている、勿論テーマがボヘミアンということもあるが、、、一時代前の歌手に比べればスケールは小さい、彼の器からしてマルチェッロはぴったりだ。おそらく今回は、クライバーだからこの役を引き受けたんだろうけれど、このぐらいが彼の身の丈にあっていると思う。ちょっと前までのエットレ バスティアニーニやティート ゴッビ級の個性の強いスケールの大きなバリトン歌手が居なくなってしまった今となっては、力量以上の大きな役をやらざるを得ないのかもしれないが、
<オテッロ>のイヤーゴやなどは歌ってくれるなと、僕は云いたい。
スカラ座が初めて全世界にT.V.で放映された時の<オテッロ>で、クライバーはイアーゴにカップッチッリを起用したが、デル モナコの<オテッロ>でのゴッビを見ていた僕には、はっきり言って物足りなさを感じたね、R.ブルゾンでなかっただけは救いだけれど、、、、好き嫌いはあるとしても、イアーゴとか<トスカ>のスカルピア男爵の様なあくの強いキャラクターは、亡くなったティート ゴッビでなければ、ぼくは満足できないんだ」と、ジョルジョは力説した。
「ティート ゴッビの声は、とても癖が強いけれど、あの声で表現する人物像は絶品だと思う。レコードでしか聞いたことがないけれど、ナポリ民謡に<ポジリポの漁夫の歌>というのがあるでしょう、彼のあの表現は、他のどんな歌手にも真似できない、何と言ったらいいかしら、つまり無骨な男の悲哀みたいな感情がにじみ出ていて、初めて聴い時唸ったわ。
ゴッビは、役者としても素晴らしいし、、、全盛期のデル モナコと共演した<オテッロ>を観たけれど、あの<クレード>やオテッロの耳に意味深長に囁きながら、オテッロの心に巧妙にデズデモナへの疑惑を掻き立ててゆく
<美しい夜に、、、>に始まる二重唱<復讐>は、今思い出しただけで鳥肌がたつわ!」
「あの頃は二人とも全盛期を迎えていたし、ある意味で歌手としてのライバル意識があったと思う、だからいい意味合いでのバランスの取れた張り合いが、相乗効果を生み出していたんだろう。僕も観たけれど、あれは凄かったね。あんな<オテッロ>は二度と観ることは出来ないと思うよ、がっちりと組み合った千両役者同士の競演ってところさ」
「ゴッビって変化自在でしょ?若い頃ロッシーニの<セヴィリアの理髪師>のフィガロを歌ったなんて、今では想像もつかないけれど、素晴らしかったらしい。わたしは、パリのオペラ座で偶然ヴェルディの<ファルスタッフ>をフェドーラ バルビエ―リのクイックリー夫人を加えたゴッビのファルスタッフを観たのよ。確か七十年だったと思うけど、これがまた本当に素晴らしかった。軽妙で、滑稽で、人間の一面を真面目に可笑しく演じてみせていたわ、役者ねえあの人は、、、、」
「ゴッビが僕のマリーアと<トスカ>をやった時、二幕であんまり憎々しくスカルピア男爵を演じたあげく、<Tosca ! Sei  mia,,,  トスカ! 君は 予のものだ、、、>とトスカを抱こうとしたら、怒り心頭に達した観客からスカルピアめがけて靴が飛んできたのさ!」
「君かい、その靴を投げたのは?」と、エリアが茶化したので、大爆笑が巻き起こった。
「それにしても、人其々の好みがあるだろうが、ディ ステファノ、
デル モナコ、フランコ コレルリや エットレ バスティアニーニ、
ティート ゴッビ、あのエレガントなチェーザレ シエピ、<セヴィリアの理髪師>のドン バルトロをやらしたら彼の右に出る歌手はいないフェルナンド コレナ等々、スケールが大きいだけじゃなく、声そのものに表現の幅がある個性豊かな歌手の時代が終わってしまったのは、寂しい限りだね」とジョルジョはため息をついてから続けた
「フレーニがプリマドンナと言われる時代だからねえ最近は、、一時期
カッラスとプリマの座を争ったアニタ チェルクエッティ、テバルディの時代だったら、彼女なんか脇役というところだよ。チェルクエッティの声の質は、誰が何と言おうとピカイチ、僕はカッラスの芸術性には惹かれるが、声に絞って語るとしたらチェルクエッティの肉の声に勝るものはないと思う」
「人間の声は、その時代の社会的背景を多分に反映しているように僕は感ずる。地球が狭ばまり、グローバルでフレネティックな社会形態になればなる程個性は軽視され、あらゆるフィールドにおいて単一化してしまう傾向にある。一瞬立ち止まって、人間としての自分の存在意義を考える暇もなく、何かに急がされるように方向さえも分からず盲進し、何故そうしなければならないかと、疑いの余地さえ持たず追い立てられて動く。より効果的にという表面的な合理精神が重要視されすぎ、個の感情の複雑な襞が単純化され、テムペラメントという個の感性が軽視されるようになり、時代遅れの価値のないものと断定されてしまう。それが、恐るべきことに表現芸術の世界にも反映されるようになってしまった。だから無駄のない「それらしく装う」という安易さが、公然と芸術の分野でも横行するようになり、テクノロジーの恐るべき発展が、なお一層それに拍車をかけるようになっている。
感性の豊かさが失われると、個性は影を潜め平均的な声が罷り通るようになる。瞼を閉じて一声聞くだけで、それが誰であるか即座に判った時代は、もう過ぎてしまったのだ。考えてみれば、二十世紀前半のイタリアのオペラ リリカ全盛期のエンリーコ カルーゾ、テイッタ ルッフォ、クラウディア ムツィオ、エーベ スティニァーニなどの巨人たちの時代からすれば、第二次世界大戦以後の歌手たちは、余程スケールが小さいと言われる定説に、メカニックに発展してゆく社会形態が、あながち人間の感性に無関係であるとは言えない。満たされることのない精神の空腹感が求めるものとは何か?
物質的に貧しくても、感性や精神が豊かであった時代は、既に大過去に属してしまっている。その現象は、表現芸術の他の分野に於いても同じことが言えるのではないか?」
 アンドレアは一気に喋ってから一息つき、シャンパングラスを片手にさら続けた。
「魂の渇望を癒すことが出来るのは、<美>以外に何があるだろうか?その<美>とはいったい何か? 本当の<美>に飢える、ということが時代遅れになってしまった現代、大部分の表現者は個の情熱を失った。何故かと云うと、合理的精神を、時代が最上の尺度としているからだ。その尺度に沿わないものは排斥され、無知無能で怠惰な人間たちは、それを価値のないものと判断することによっのみ自己肯定することが出来ると、錯覚する。
しかし、この荒唐無稽に思われる時代に、合理的精神の尺度を破壊した芸術家が忽然と現れた、カルロス・クライバーだ。
彼の魂は、<美>に飢え、力の限りを尽くしてその飢えを満たそうとする。
その魂のメッセイジの振動を受け止めることが出来る人々が、未だスカラ座には居るということに、僕は大いに満足する」と云ってから
「Evviva  la Scala !  スカラ座 万歳!」と手にしていたグラスを掲げると、皆がそれに同調した。
「僕がドイツで観た<ヴォィツエック>で、クライバーは或るフレーズで弦楽器に悲鳴のような軋んだ音を要求した。僕はその時ハッとして、全身の毛穴が泡立つのを感じた。後になってそれはヴォィツェックの苦悩の極限だと理解したが、とにかくクライバーの魔術は僕らの想像の遥か上をゆくねえ。
音の彩の微妙なニュアンスの陰影を活き活きと変化自在なリズム運びで刻むかと思えば、なんの予告もなく、いきなりきらりと刻み方が変化する。
オルケストラのメムバーが一瞬たりとも指揮者から目を離せないというのは、そんなサプライズがいつ何時起こるか予測できないからだそうだ。
まあ、あの人の才能は本当に天からの贈り物としか言いようがない、ねえ、マリアム」 ジョルジョが笑いながらマリアムに目配せした。
「そうねえ、言葉で感動を正確に表現するのは不可能だと思うけれど、貴方の言う音彩の微妙なニュアンスというのは、オルケストラから惹きだされる音の彩の種類が無限に豊かで、、しかもその明度彩度が複雑に絡み合っているからなのでは? 世間では、天才とは何も努力しなくても、頂点に達することの出来る才能を持った人だなんて思われているけれど、それは凡人や愚者の言うことで、天から授かった才能を十分に開花させるために、壮絶な努力の限りを尽くす才を持つ人を、ゲーテは天才と呼んだわよねえ。凡才だって努力する人はいくらでもいるでしょうが、如何に何に努力するかが問題ではないかしら?限りない努力の結果<ディオニソスの美の極地>に達することが出来るのが天才、いくら努力しても<ディオニソスの美の極地>の存在さえも知り得ないのが凡才でしょう?そこが全く違うと、わたしは思うの。
そして、才能に恵まれながらも努力を惜しんで<ディオニソスの美の極地>に達することが出来ない、そんなもったいない人も、たまに居るわねえ。
 綿密なアナリーズと深く掘り下げた研究の上に創造された世界は、やがてマエストロ クライバーのテムペラメントの中でロゴスからパトスへ、つまり<ディオニソスの美の狂気の饗宴>に昇華されてゆ<ENIGUMA   謎>としか言いようのない瞬間的な永遠性とでも言ったらよいかしら、、、ある学者が<人間の身体の動きとは、その人の魂の言葉である>と言ったけれど、無意識の佇まいが、その人の精神を反映していることだけは確かね。音楽を操るマエストロ クライバーの身体は、彼の魂の渇望の表出以外の何物でもない。そこには、生命に満ち溢れた<美>が渦巻き、音の群生が沸き立っている、と私は感じる」
「マリアム、それは一体どういうことなんだい?僕にはちょっと理解できないが、、、」とエリアが訝し気に言いかけると、アンドレアが遮って
「マリアムが、クライバーの創造の世界を<エニグマ>といったことに、僕は同感だ。その魔術に魅せられると、異次元の領域に入り込んで行く危険性がある。要するにマリアムの言う<ディオニソスの狂気の美の饗宴>だね」
「つまりブラックホールみたいなものさ、エリア!」
と、ジョルジョが茶化した。
「演奏に必要なすべてのエレメンツが整えられて、あの魔法の指揮棒が振り下ろされた瞬間、無機質の世界が一瞬にして命の躍動する生命の溢れる世界に変貌する。わたしにとって、それはミケランジェロの創造主がアダムに生命の火を灯す瞬間とか、ボッティチェッリの西風がクローリに春の息吹を吹き込むその瞬間と同じようなときめきなのよ」
「とにかく、スカラ座がプラテーアから天井桟敷まで湧き上がるのも、久々の光景だね。どうだいあの花吹雪は!誰のカーテンコールよりもクライバーに飛ぶ花が圧倒的に多いじゃないか!マリア カッラスの時だって、あんなにはなかったなあ、、、スカラ座の聴衆は、飢えていたんだねえ本当に素晴らしいものに。レオナール バーンスタインの言葉を思い出すなあ、クライバーの<ラ ボエーム>を観た後で彼は、”自分の生涯でこんなにも美しい<ラ ボエーム>に出会ったことはなかった”と云ったそうだよ」と、ジョルジョが云った。
 現世の社会的地位にも年齢にも束縛されることなく、ただひたすらに、純粋に音楽を愛する情熱で結ばれた友人達は、それに陶酔することが出来る人々だけが感ずる歓びと幸福感に充たされて、シャンデリアの煌めきの下で、シャンパンの杯を重ねながら心地よく酔い痴れていた。
    Al di  Là (かなたに)へつづく


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