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霧の宴  ミラノⅡ               アンドレア

 アンドレアの山荘から更に坂を登ったところにある三棟に分かれたサナトリウムから、ドット―ル マーニは毎日のようにマリアムを訪ねてくれた。
子供のような悪戯っぽい表情を茶色の眼に浮かべた彼は、たいそう瘠せていたが快活で陽気で、胃潰瘍を患っているというのに煙草をふかし、食事のワインも決して欠かさなかった。
 初対面から、ドットーレと呼んでくれるな自分はジョルジョという名前だ、と云ってマリアムにそう呼ばせた。
 そのジョルジョは、呼吸器の専門医であった。そして彼もまたクラシック音楽を愛し、特にオペラ リリカに関しては造詣が深く、自他ともに認めるマリア カッラスの熱心なファンであった。
彼の母親の話によると、医学生時代、週末にミラノから実家に戻ってくると、「あゝ、医者になるのにはどれくらい勉強しなければなたないか、ママには想像もつかないだろうね!」と、ため息をついて見せたそうである。が、学友たちの話では、実際には、その頃のジョルジョはスカラ座がシーズンに入ると学業そっちのけで、可能な限り劇場に入り浸りであった、ということである。
 確かにその頃は、マリア M. カッラスの全盛時代で、レナータ テバルディとオペラ リリカの世界を二分していた。A.トスカニーニが"天使の声”
と称賛した美しくリリカルな声のR.テバルディに対して、ギリシャ人のM.カッラスは、ドラマティックなヒロインを抜群の表現力で演じ、聴衆を熱狂させたのであった。
<僕のマリーア>がスカラ座に出演する夜は、ジョルジョは必ず花束を楽屋に届けさせていたそうである。彼は、なによりもM.カッラスの血の中に流れる古代ギリシャ劇の悲劇的なドラマティックな表現を愛したようである。
特にL.ヴィスコンティ演出による<La traviata ラ トラヴィアータ>は、彼を夢中にさせたらしく、その後何年経っていても話題がそれになると、繰り返し繰り返し、その時の感動をあたかも昨日の出来事のように語るのであった。彼の自宅の部屋には、M.カッラスのサイン入りの舞台写真や、ジョルジョに宛てたM.カッラス直筆の手紙が数通、ガラス張りの額に入って飾られていた。そのM.カッラスが急死すると、悪友達は<カッラス鰥夫>とからかったが、ジョルジョは一向に悪びれる様子もなく、子供のような眼をしばたたかせて笑っているのであった。

 「今日はミリーの家で食事をしようと思う」と、ある日ジョルジョはマリアムを誘った。
 エミリアは、独身の五十歳近い小柄で小太りした看護師で、サナトリウムに勤務していたが、その彼女とジョルジョの会話は恐ろしくきわどく陽気で、どこからどこまでが冗談なのか真面目なのか、判断がつかない程であった。
「何時になったら太るのをやめるのかい、ミリーはもうパンク寸前じゃないか!」
「自分が痩せているからって、そんなにやきもちを焼くんじゃないの!そっちはまるでズリンツェガ(牛や鹿の乾し肉)ってとこよねえ。まったく、内科の医者でなくてよかった。胃の専門医だったら患者が逃げ出すのは間違いない、何しろ、胃潰瘍の手術が怖くて未だに潰瘍を大事に抱えているんだからね」
「余計なお世話さ、胃は俺のものなのだからね。其れより君のダイエットは何時になったら効果が現れるんだい?ミリーは猪の類に入る、つまり豚族だな、要するに人生いや豚生の目的は、食べて太る以外に何もないのさ」
「あゝそうですか、それでは、今夜のプリモはプーリア風にするけど、悪魔のしっぽ(唐辛子)をたっぷり入れましょうかねえ」と云いながらマリアムに片目を瞑って見せた。しかしそう云いながら、ジョルジョのために特別刺激の少ないアッラ ビアンカを用意するのであった。
 彼らの陽気なやり取りを笑いながら眺めていたマリアムに、不意に何かを思いついたようにジョルジョが立ち上がり、意味ありげな目くばせをしてから忍び足で化粧室に入っていった。
暫くしてマリアムが行ってみると、壁いっぱいの鏡に<御入用な方は当方にお申し付けください 人糞製造株式会社代表 エミリア カスターニ>と、エミリアの口紅で大きく殴り書きしてあった。
 その翌日は、二人の同僚たちがジョルジョの家に集まって夕食会となったが、トワレットの鏡にジョルジョのシェイヴィングクリームで
<便秘はケチの証拠なり>と、胃潰瘍を患う人にありがちな便秘に悩まされるジョルジョへのエミリアの復讐が見られた。
しかし、同僚たちの話では勤務中の彼らは、真面目にドット―ル マーニ、シニョリーナ カスターニと呼び合っているそうである。
「ミリーは、古くからの悪友でね、僕がインターンの頃、初めて大きな手術に立ち会い途中で気分が悪くなって立っていられなくなった時、何しろ初めてだったからね、僕を手術室の外に連れ出して、そんなことで医者になるつもりか、と𠮟りつけたんだよ」とジョルジョは笑った。

 遅い春がそれでも日一日とゆったり巡り、マリアムに確かな変化が見られるようになっていた。
サロンからの眺めがすっかり重い雲に遮られたある雨の日、暖炉に燃える薪の時折はじける音が辺りの静けさを破る午後、マリアムは山荘に来て初めてレコードを聴く気分になった。
それ程多くないアンドレアのコレクションの中から、C.ドゥビュッシーの
<牧神の午後への前奏曲>を見つけ出した。フリュートが奏でる導入部の牧神のテーマは、R.コルサコフの、ヴァイオリンに託されたシェへラザードのテーマ同様、マリアムを物憂い夢想の世界に誘うのであった。
   ソファーに横たわってドゥビュッシーを聴きながら、気怠い夏の昼下がり、木々の間に現れては消える水浴するニンフ達の裸体に午睡を悩まされる孤独な牧神を想像していた。
L.バクストを纏ったV.ニジンスキーやR.ヌレイエフよりもっとナイーヴで独居を好む、気ままな半獣神ではないか?そして彼の森は、重苦しL.バクストのそれではなく、E.ガレの大きな壺に描かれる判然としない不透明な眠い森に溶け込んでいるのである。
 ドゥビュッシーはその時、サムボリズムの退廃的な美の世界へマリアムを心地よく誘っていた。

「なんだい、レコードを聴く気になったとは、大した進歩だね」
ジョルジョは、牧神が終るころ山荘に現れた。
「昨夜遅くアンドレアが電話をしてきてね、君の容態を聞いて自分の目で確かめたいから、明日の午後ここに来ると云ってきた。
一年ぶりになるね、彼に会うのは、、、例の発作以来益々忙しくなったようだし、以前のように山には来れ無かったのさ。それに長時間の運転はちょっと無理になったのか、明日ソンドリオの駅に五時ごろ着く電車に乗るから、僕に迎えに来てくれといった」
「エリアは?」
「いや、独りで来るつもりだと思うよ。エリアが一緒なら車で来るはずだ。
僕が君をあちこち引き回しているのが心配で、医者としてもっと真面目に面倒を見てくれと言ったから、神経障害と云ったってこの程度なら荒療治に限ると云ってやったら、心配になって様子を見に来る気になったようだ。
優しいんだね、メスを手にしていない時は、、、」
「メスを手にするとどう変わるの?」
ジョルジョはにやりとして
「彼が胃の手術をするところを何度か見せてもらったが、手術着を脱いだ彼しか知らない人には想像もできない。恐ろしいほど冷静で大胆なのだ。僕の潰瘍も取ってくれると言ったけれど、冗談だとしてもあんな宇宙人みたいな男にメスを入れさせる気はないね、僕は。それに発作の後、手術をやめてしまったようだ、まあ、医者としては当然の決断だがね」
 この一週間は毎晩のようにジョルジョやエミリアと一緒に、彼らの同僚や友人達の家に出かけていたので、アンドレアと話す機会がほとんど無かったた。彼らとの陽気で屈託のない会話は、マリアムの神経を和ませて、薬の力を借りなくとも眠りに入れるようになっていた。それでも、時折R.ワグナーの或る旋律が突然眠りの中に鳴り響き、ハッとして目覚めることはあったが、以前のような興奮状態に陥ることはなかった。
 アンドレアの思いがけない到来が伝えられ、山の旧知の友人達を大いに喜ばせた。
「明日はきっと雨が上がると思うよ。月曜の朝までいるそうだ、アンドレアのためにも好いことさ。僕は三日間の休暇を取った、君も調子を取り戻しているし、彼の具合を見て、久しぶりに遠出でもしてみるかな」
 ジョルジョは暖炉の日をかき混ぜながら、うきうきして云った。
       つづく


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