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霧の宴   ミラノ Ⅲー1        クレリア夫人

*マリアム、ジュリア―の公爵夫人との出会いとその後の交流。
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  八月のコンサートをアンドレアに約束していたので、マリアムはジュリア―の公爵家の夏の館で過ごすヴァカンスの日程を変更しなければならなかった。毎夏、もはや恒例となっているマリアムのファノ滞在を、クレリア夫人が心待ちしているのを知っているので、少し申し訳ない気がしていた。
 公爵夫人との出会いは、数年前ポルディ ペッツオーリ美術館でS.ボッティチェッリ作の<嘆き>の前で言葉を交わしたのが最初であった。
<嘆き>の人物群像の見事なコンポディションに魅せられて、釘付けされたように立ち尽くしていたマリアムに、長身ですっと背筋の伸びた気品の漂う年配の夫人がそっと近づき
「たいそうお気に召されたようですこと、、、」と、物静かな柔らかなトーンの声で話しかけたのであった。
 その後、夫人が大の美術愛好家であることから、二人は急速に親しくなって、毎年八月はファノの館で過ごす公爵夫妻の招待を、マリアムは喜んで受けるようになっていた。
 小高い丘の上の古い館は遠くからは見えないほど樹木に埋もれていたが、高い塔の上から眺めると、遥か遠くに光るアドリア海に至るまで公爵家の領地であった。
 クレリア夫人が愛蔵している公爵家代々の美術工芸品は、かなり広範囲にわたっていたが、歴代の当主やその夫人たちが時代と共に収集したもらしく、いささか悪趣味な、とマリアムには思える傾向のものも混ざっていた。
クレリア夫人自身のコレクションは少なく、前世期末期、二十世紀前半の工芸作品が大半であった。
「今となりましては、手元に置いて愛でたいと思うものを見つけましても、とても手が出せません。夫は美術や工芸には全く興味がありませんし、先代のコレクションにありました印象派の絵画や.G.ポンティのマジョルカなども数点手放してしまいました」と、寂しげに微笑んで云った。
「それに、私共が独占しておりますより、美術館の方が大切に保管してくださるでしょうし、そこに行けば何時でも多くの人々が楽しむことができますものね」
 午睡の後、公爵夫人は訪問客のないときは庭のひときわ大きな木の木陰の寝椅子にゆったりと身を沈め、広間の窓を開け放させて、レコードをかけさせて聴き入るのであった。ピアノ曲が大半を占めていたが、W.A.モツアルトやR.シューマン、F.リスト、F.ショパン時には、M.ラヴェルの<夜のガスパール>、S.ラフマニノフ等々であった。
広間には古いベヒシュタインのグランコンサートがあったが、彼女自身はピアノの嗜みはないと云って、時々マリアムに下手なG.D.スカルラッティやW.A.モツアルトを弾かせた。
「先代の公爵は、音楽や美術にとても造詣の深い方でしたのに、私の夫には少しもその様子が見受けられません。オペラ リリカや交響楽に至っては、煩いだけだ申しますの。
でもただ一つ例外がありまして、P.チャイコフスキーだけは嫌いではないと言いますの、妙ですわ。彼の情熱は植物学とか動物学なのです。世界中から妙な植物を取り寄せて、庭に植えたり温室で育てておりますの」
そういえば広大な領地の此処かしこに、みごとな白い羽の孔雀や極彩色の鳥たちが住んでいる巨大なガラス張りの檻だとか、肉食植物が生息する温室などが点々と見受けられた。
 すらりと長身の夫人に比べると、彼女の肩ぐらいの背の低い公爵は、小さな丸い青い目に何時も人懐こい微笑みを浮かべている、気取りのない気さくな人柄で、ゴム長靴をはいて大きな麦わら帽子を冠り、領地の百姓にリンゴの木の手入れを注意しているところは、まるで農林研究所の所長の様相であった。
「これは、イギリスから取り寄せましたグラニースミスという品種です。駆虫薬品は一使用いたしませんし、有機肥料を使いますから形はあまり良くなく小さいのですが、味は自然そのものなのですよ、ねえ、クレリア」と夫人の同意を促すと
「ええ、そうですわ、虫たちにだって生きる権利があると、貴方はおっしゃりたいのですもの。虫たちが満腹した後の残りのリンゴを私共が頂く、ということになっておりますの」と、夫人は微笑みながら皮肉ったが、公爵は少しも意に介さずマリアムに向かって「朝食のコンフィチュールは、みなここでとれた果物で妻が作ったものなのです」と云った。
 大きな麦わら帽子を冠り遠ざかって行く公爵の後から、コッカ―スパニエルのジャネットとワイアーテリアのシーラが、踊り狂いながら家来の様に従って行った。

 珍しく週間天気予報が当たって、中部イタリアは雨模様で少し肌寒さを感ずる日が続いた。
そんなある日、夕食の席でクレリア夫人が云った、
「明日、公爵がフィレンツェに私共の弁護士を訪問なさるの。それに便乗しようと思うのですが、いかが?こ のところ雨続きですから、彼方もそれ程暑くはない筈ですわ。私、暫らくぶりに古いお友達に、貴女をご一緒して会いたいと思いますの。彼らは貴女のお友達でもありますのよ」
切れ長の瞼が美しい眼に、珍しく悪戯っぽい笑みをうかべて、夫人は意味ありげにマリアムを見つめた。
「奥様とわたしのお友達とおっしゃいますと、、、」心当たりのないマリアムは戸惑った。
「ウッフィツィ ギャラリーに大勢いらっしゃるでしょう?」
夫人は楽し気に、控えめな笑い声を立てた。
「あなた方は全く骨董品だ。クレリアは未だにルネッサンス期に生きているのですからね。貴女のようなお友達を得てから、益々その傾向が強くなりました」
 琥珀色に透明な自家製のワインをグラス越しに透かしながら、公爵はからかうように云った。
「ええ、その通りですわ。貴方がウゴリーニ弁護士を訪問なさっている間にマリアムと私は、デ メディチのお集まりに行って参りたいと思いますの」
と、夫人は少しはしゃいで云った。その時の公爵に向けられた夫人の横顔は、少女のように華やいでいて、夫人と初めて出会ったポルディ ペッツォーリ美術館の、あの美しいS.ボッティチェッリの<祈祷書の聖母>をマリアムに連想させた。 
            つづく


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