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ゲームくらい、ひとりでやりたい

 リトルナイトメア3が今年発売になるらしい。2までで終わりだと思っていたので、とても嬉しい。

 リトナイの、暗い中を1人で進む孤独と暗さが好きである。リトナイ2は2人連れになってしまったけれど、相手は協力者なのかどうかもよく分からない完全NPCだった。リトナイ3はついに、マルチが可能になってしまう。幸い、リトナイ3は1人でプレイは可能らしいので1人でやる気でいるが、世界から孤独が淘汰されていくのは寂しいものだと思う。
 孤独に押しつぶされそうになっている人の不況を買いそうだが、私は、繋がりに食い殺される事のほうが恐ろしい。

 ここ10年ほど、震災と新型コロナの流行を経て、「絆」と「人との繋がり」がブームである。SNSで常に繋がり、居場所を監視し合い、常に応答を求める。繋がることは素晴らしいことで、1人でいる事は避けるべきかわいそうなこと、という「常識」が強化された。

 繋がりを強要される窮屈さが増していくだけのように感じているのは私だけなんだろうか。
 そもそも「絆」は家畜をつないでおくロープの事で、ニュアンスとしては「柵(しがらみ)」に近い言葉だ。繋がれたものは、切りたくても自力では切れない。私からすれば言い得て妙だが、おそらく、多くの人はそういう意味でこの言葉を使っているのではないだろう。

 繋がらないと不安で、ひとりでいられなくて、常に相手をしてくれる誰かを探し、SNSから離れられない。そのSNSはパーソナライズされていて、とても狭い範囲のものしか見られないようにされているのに、小さなバブルに閉じ込められていることに気づかない。もしくは気づきたくない。とても不安定で悲しい人物像に思えるが、案外こういう人は多いのかも知れない。

 世間一般に求められる「繋がり」は、私にはかなり距離が近く感じられる。私はもっと遠くにいたい。あまり近くに来られると、浸食されるような感覚があって、恐怖すら感じる。切れないロープは愚か、手を繋ぐのも勘弁して欲しい。手を伸ばしてもギリギリ届かない距離に立つくらいの緩いやり方はないんだろうか。

 管理したい側からすれば浮遊分子はないほうがいいのだろうし、繋がれたい人はそうすればいいと思うが、私は、ゲームくらい1人でやりたい。

 

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