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原爆投下の正当化

前記
 以下の文は、だいぶ前に書いて放置していたものなのだけど、米議会のおかげで存在を思い出したので公開することにした。



 日本への原爆投下は正しいことだったと言う人がいる。大体の主張はこうだ。「日本への原爆投下によって、冷戦での核兵器使用が避けられ、戦争を終わらせたことで日本の戦死者も減ったはずだ。だから、日本への原爆投下は正しかったのだ。」
  
 これでは、事前に動物実験を行っていたから人間に使われずに済んだ、と言っているようなものだ。実際そうだったとも言われている。あまりにも迅速な実行、2種類の原爆の2度にわたっての都市(人間)へ投下、動画撮影とくれば人体実験準備万端だったのだろうと思わざるを得ない。あと、京都が最後まで投下候補地であったことも。京都を吹っ飛ばしたら、文化財(観光資源)を失った日本の植民地としての価値は半減する。普通は真っ先に候補から外れるが、盆地にある人口密集地は実験場としてあ理想的。簡単には諦められなかったのだろう。

 日本での原爆被害を見て、その後の原爆使用を躊躇うのは正しい。しかし、その因果を逆転させ、冷戦で使われなかった事を以て日本への原爆投下を正当化するのは、当時日本にいた人達の人権を剥奪することだ。
 ついでに、日本は原爆によって敗戦を受け入れたのではないから、最初に書いた言い分には一欠片も頷けるところが無い。
 
 しかし、この言は現代でもまかり通っている。80年近くが経っても相変わらず、日本人(を含むアジア人)は人間と見なされていないようだ。

 世界から戦争がなくなったことはない。戦争をしている人達の目には戦っている相手が人間には見えていないらしい。敵であれば虐げてかまわないモノになる。程度は違えど、女性がモノに見える人は日本にもいる。幸か不幸か私には人は人にしか見えない。これは私が運に恵まれているからか、それとも私もモノと見なされる側だからか。

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