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あの子の誘う海まで

「こっちにおいでよ、きっと向こうにはキレイな海が見えるよ」
 あの子が俺に向かって呼びかける。ポニーテールとオレンジのパーカー、デニムのワイドパンツに赤いスニーカー、深緑のポシェットそして目尻の下がった笑顔。あの子は俺に向かってずっと呼びかけている。俺は会社からの帰宅途中、最終電車に乗るために駅のベンチに座って待っている。
あの子は自分がいるホームの線路の真ん中に立っている。
「ね、こっちだよ。こっちにいけば海がある」
汽笛がして、快速列車が視界を覆う。枕木と風を切る音が響いてくる。あの子の姿が鉄の塊にかぶさって通り過ぎると、線路の上にあの子の姿はなかった。
両肩を強い力で引っ張られる。座っていたはずの俺の体は引きずられるように後ろへ持っていかれた。
「お客さん、そんなところに立っていると落ちますよ」
若い駅員が迷惑そうに俺の顔を覗き込む。
ベンチに座っていたはずの俺はあと一歩踏み出せば線路に落下するところまで近づいていた。
いつの間に俺は立ち上がっていたのだろう。
駅員に軽く頷くと、動揺を隠すようにベンチに座り直す。駅員はしばらく近くに立っていたが、仕事に戻っていったようだ。
再び線路の上に目をやるが、あの子の姿はみえない。
あの子のことは約10年前、大学三年生の頃から見えている。俺の行動するところ、どこにでも現れる。そして海に行こうと笑顔で誘いかける。いつもなら一週間に一、二回の頻度だが、疲れているときはよく現れる。
俺は思う。あの子は誰だろう。
思い当たる節がない。見た目は小学生だが、あんな女の子がクラスメイトにいた記憶がない。そもそも俺が通っていた小学校は山の中にあり、俺が最初に海をみたのは高校に上がってからだった。それ以降海にいくことは何度かあったが、特に変わったことはなく海に特別な思い入れもない。
だけどあの子はずっと変わらず俺を海へと誘いかける。
さっきまであの子がいた線路を見つめる。ホームからの明かりに照らされて線路と敷き詰められている石たちの陰影がくっきりと見えて、急に寒気がした。あの子をみたときはなにも思わなかったのに。やっぱりあの子は悪いものではないのかもしれない。なら海に行ってもいいだろう。海に行きたい。俺の知らない、あの海へ。
最終電車がゆっくりと俺の前に止まる。ドアが開いた。列車のなかには誰もいなそうだったが、目が眩むほど明るかった。
俺はベンチから立ち上がり電車の中に入る。明るい。このまま電車に乗れば家へと帰れる。帰ったら、明日また会社に行かなければならない。でも何度も繰り返せばいつか終わる。そしてその後、海にいこう。
ふと、最終電車がやってくる駅のアナウンスが聞こえなかったことに気がついた。
俺の後ろで電車のドアが閉まり、動き出した。

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