パンダのおじさん

おじさんが仕事を無くしてから、おかしくなったことは一ヶ月前に母親から聞いていた。しかし家にやってくる日ぐらいは教えておいてほしかった。家のドアを開けたとき、目の前に全身白塗りで頭を剃り、全裸で目の周りや尻のあたりを真っ黒にした中肉中背の男が立っていれば、男子高校生といえどホラー映画みたいな悲鳴をあげる。つまり怖かった。

「パンダになろうと思ったんだよ」
どうしたんですか。という質問に対して、おじさんはそう答えた。それも知りたかったが、どうして家にやってきたのかを知りたかったのだが、今トンチキな格好をしていることを咎められたのだと考えたらしい。確かに俺は悲鳴をあげたしな。
「ここにくるまでずっとその格好だったんですか」
「うん、パンダが着替えを入れたバッグを持っていたらおかしいだろ? 家を出たときからこのままだよ」
「家ってたしか○○県にありましたよね」
「そう高速バスと電車を乗り継いできた。七時間ぐらいかかったよ。疲れた」
おじさんはテーブルに手をつき、麦茶に口をつける。まだ大きい氷を口に含みガリガリと囓る。
「警察に止められたりしなかったんですか。服なんて着てないですよね」
「そうだよ、夏の盛りを過ぎたとはいえまだ二十度くらいはあるからね」
「そうじゃなくて、捕まるような気がするんですけど…」
ああ、と合点がいった様子でおじさんは得意そうな顔になる。
「そういうときはね、パンダになるんだよ。ちゃんと人からパンダになれば怒られないよ。動物は服を着ないからね。つまりパンダはあまり二足歩行しないじゃないか。だから道を歩いているときはまだ人間の成分が多いんだ。すると変な人だっていわれて下手すると警察に通報される。そんなときはこう座って、上を向いたり、みんなとは関係なさそうなふりをする。するとああ、あそこにいるのは実はパンダなんだ。よかった、となるわけだ」
「街中にいるパンダのほうが通報されるような気がするけど…」
「ただパンダのままだとお金がなくなってしまうし、おいそれと外に買い物に行くこともできない。だから今日から君の家で住まわしてもらおうと思ってきたんだ」
まだたっぷりと中身が入っている麦茶のグラスを目の前の変態に投げつけてやりたかった。
夕方になって両親が帰ってきた。おじさんはさっきと同じ説明をした。両親はそれじゃあ仕方ないわね、というふうに受け入れた。俺は動揺する。どうしてこんな全裸親父と普通に接することができるんだ。俺がおかしいのか、世界が狂っているのか、それともすべてがおかしいのか。むしろこれが正常なのか。
「いつまでおじさんは家にいるのさ」「わからない。いつかはパンダじゃなくなる日がくるかもしれない。その時までよろしく」
それから家にパンダおじさんが住むようになった。
 両親とも共働きのため、学校から帰ってきても家には俺しかいない。元々おじさんとは年始、母方の実家にいったとき、たまに合う程度の間柄しかなかったため、ほとんど会話したことがない。というよりも、喋らない。うちにきてから生活の心配をしなくていいからかパンダになりきるようになったからだ。
たまに家の中でおじさんが座ってぼーっとしているのを見かけるが、こちらから近づいてもチラとこちらをみただけでまたぼーっとする。ご飯は笹の葉やタケノコのほかにニンジンやセロリ、サツマイモなどとにかく植物性のあらゆるものを食べた。
庭にそれらのご飯を置いて、隣にブリキのバケツにくんだ水を置く。するとのしのしとおじさんがやってきて頭を突っ込みもしゃもしゃと食べ始める。
その三ヶ月後には全身にカビが生えてきたのかと思いきや、白と黒の毛が生えてきた。
半年もするとどこからみても動物園にいるパンダにしか見えなくなっていた。するとトイレと風呂くらいは自分でこなせる、頭の良いでかいペットを飼っているような気分にしかならなくなってきた。

その間も俺は無事高校を卒業し、大学生になった。自宅から通える大学のため生活リズムはほとんど変わらなかった。おじさんもまったく変わらない。パンダのままだ。
いつか変わる日はくるのだろうか。きたら次はなにになるのだろう。くぬぎの木とかだろうか、それともジュゴンか。ダイヤモンドとかの無機物かもしれない。ともかく人間でないことはたしかだ。おじさんは人からもっとも遠いところにいる。きっと宇宙のどこか、月よりも遠いところ。

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