優しさを考えることは無駄

優しさとナントカは使いようである。

優しいことは何一つ正義ではない。しかし、悪でもないから厄介なのだ。優しさに甘えることも、優しくなろうとすることも悪なのに、優しいということ自体がなんでもないから厄介なのだ。

優しさに対する憧れなど打ち捨てて仕舞えばいいと思う。苦しみがデフォルトになって、逃げる術がなくなれば何もかもがうれしく感じるはずなのだ。いつもそこにある幸せを噛み締めることができる。

花鳥風月という言葉がある。俗語的な意味でいうと、花から始まって月にまで心動かされるようになるにつれて、どんどんと老いが進んでいる、というもの。これの解釈を少し自分流に解釈してみれば、世の中の辛酸に辟易した人間のたどりつく感性が、そばにあるものにすがるようにして心動かされるようになるサマなのだ。

幸せも愛も何もかも幻影である。そのカルトを信仰しているだけなのだ。それが実感的に現れるのは、そういうものがあると思い込んだ脳の見せる幻影。言わずもがな優しさも幻影なのだ。人間の感性の原始的で醜いところを無視した、文明ぶったやましい産物なのだ。

本当の喜びはどこか、そうやって考えていけば、人間は苦しむしかないのだ。苦しんで苦しんだ先にしか感情が咲くことはない。断言できる。苦しんで壊れたらどうする、と聞こえる気がするけども、壊れるほど脆い物なら壊れて良いのだと思う。

全部ハッタリです。

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