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長い夜が明けて

映画の中で至上の愛の伝達は殺害と性行為だと思うほどに、性的関係が自分の中でとても優位にあった。性的な関係を結ぶことが最終的なもので、それ以降は性的な関係を続けられるかどうかで関係の長短が決まっていくとさえ思っていた。

なぜそう思うのか。単に、自分のせいでしかない。としか言いようがない。そうなんだからそう。自分があまりにも混乱していたことを思い出すようだ。

ではなぜこの前文が過去形なのか。それは最近見た映画に由来する。

濱口竜介の「親密さ」と言う映画を観た。新文芸坐の特集上映で7/25と7/31の回があり、2回どちらも観た。1回目はただただ打ちひしがれるだけであった。何も言葉を言うことができなくなってしまって、ただただ映画館を飛び出してウロウロ彷徨った。

1回目では、ほとんど意識が飛んでしまって、とても由々しき事態だと感じてしまった。だって、何に衝撃を受けたのか、そのことについて何一つ心に明かされないまま、モヤモヤした状態がずっと続いていたから。普段ならば、そんなこと言葉にしたくないと強情になってしまうのだけど、自分はこの時限りは、どうしても大事なことを見落としていると思ったのだった。何かとてもとても大事なことを見落としていると思った。

2回目を観た時に、それは確信に変わっていた。その確信というものは後に僕をものすごく考えさせ、納得させ、視界を晴らすほどのものであった。 

この映画にはラブシーンが無かった。

幼少期に目を向けよう。幼い時分には、母親や父親のことをとてもとても愛している。僕も、あの時は「お母さんと結婚する!」と豪語していた。恥ずかしいけれど、そういう時期はだいたいあるものだから、否定するまでもない。

ある時期を過ぎ、母親や父親に全ての愛を注いでいたが、その一部が性欲であることを知り、愛は分化する。友人家族に向けられるものと、自らの性的対象に向けられるものに愛は分けられていく。その時点で、人間は自然と誤解をするようになっていくのだと思っていた。

その一端が僕のような人間に現れるように、自分の性的対象(その性の友達などは省かれるが)に向けるものが性欲のみであって、性的な関係を結ぶことが最終的なもので、それ以降は性的な関係を続けられるかどうかで関係の長短が決まっていくと。

ある程度の誇張表現はある。もちろん友達のような関係性の上で性的な関係を持つことだってあったけれど、当時僕は、友人のように気が合う人間のことを性的に見ることができるかできないか、が恋人か友人かの区別である、と語った。このことを考えれば、性的なものをいかに重視していたかということがわかる。ここ数ヶ月では如実にそう思っていた。

そんなに洒落臭いことは全く無かったのだ。「親密さ」だけではない。「寝ても覚めても」「ハッピーアワー」の中で、僕が観たことのある濱口映画の中で常に述べられていたのは、『誰と、いかに夜を越したのか』だった。

セックスをして夜が朝になる、ということは、家に帰って家族と川の字になって眠ることや、一人で寂しさに震えながら夜をやり過ごすことや、友達と夜を語り明かすことと同じで、むしろセックスはおまけであったのかも知れない。夜を越して、その度に変わっていく自分と周りの人々、それしかないのだった。それでしかないのだった。

長い夜の中で、お互いを分かりあったり少し嫌いになったり、膝を打つような考えにであったり、悲しくて寂しくて仕方がない心に耐えてまた強くなったり。ただ、この人生に必要なことは、『いかに美しい夜を過ごしたか』ということに過ぎないのだろうと。

そう思えば、性的関係そのものに何一つ興味は持てなくなった。自分の中で、他人は、夜を過ごしてもいいと思うだけの家族のような温もりさえあれば、それだけで良いのだと思う。その中であったり無かったり、そういうものなのだと思った。

そういう人だけを大事にしたいと思うようになった。

そして濱口竜介のことが大好きになった……。


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