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【PODCAST書起し】精神分析家でアマチュア落語家の藤山直樹さんに聴いてみた。2、芝浜から始まって「父性と母性」について

【PODCAST書起し】精神分析家でアマチュア落語家の藤山直樹さんに聴いてみた。
2、芝浜から始まって「父性と母性」について

【和田】『芝浜』というのは、夫婦の話であったり、駄目男が立ち直るみたいなことがあるのだけれど、これは僕の意見なのですけれど、なんでこの話が魅力的なのか、もう一つは、なんで立川談志という人が、特に後期、あれだけ執着したというか、自分のピントを絞ったのかというのは、『芝浜』がカミングアウトする話だからだと思うのです。


【三浦】ああ。


【和田】これはカミングアウト話だと思う。それで、最大のカミングアウトはかみさんですよね。


【三浦】そうですね。


【和田】かみさんがうその物語を亭主に信じ込ませていたと。だけれど、どこかでこれは言わなければならないなと。騙したまま終わるわけにはいかないなということで、意を決して言うわけじゃないですか。しゃべり終わるまで怒らないでおくれという、それから前半も……でも前半は違うな。つまり、どうしても言わなければいけないことを言えるのか、言えないのか、でも今日言うみたいなところが僕は面白いし、ユニークな話だなと思うんですよね。


【藤山】つまり、真実っていうものの話ですよね。真実がそこに持ち出されたときに、奇跡が起こったみたいな感じがします。それは、そういうことがあったら、本当にすてきだなと思うのだけれど、実は真実を持ち出したことによって、大破局になるということもよくあるのだけれども。真実を持ち出したことで、何か幸せなことが起こったという話は、やっぱり魅力的に感じてしまいますよね。


【和田】そうですね。だから僕はちょっと逆説的に言うと、談志師匠なり、他の人。談志さんを例に出すのが分かりやすいのだけれど、この『芝浜』という夢のお話をやっているわけじゃないですか。だから本人はカミングアウトできない人だったと、僕は思う。


【藤山】ほう。本人は。


【和田】本人はそこで揺れているのだけれど、カミングアウトがすらすらとできてしまう人だと、あれほどの揺れ動きが必要ないというか。


【藤山】なるほど。それはすごく分かる気がする。


【和田】だからそれが、リアル人生でできない人だから、落語というものを得て、表現できて良かったなと。


【三浦】ものすごくさまつな話なのですけれど、芝浜でお財布を拾って宴会をやるじゃないですか。あの金は、いずれ返したんですかね。どこかでこう。あれは、すぐに返せないですよね。当然。全く触れられないですけれど、触れなくていいのですけれど。


【和田】そうそう。まあね。


【藤山】要するに、真人間になって返し続けたという、そうだと考えざるを得ないです。あのストーリーだと。


【三浦】ということが、底流にあるのですね。


【藤山】あんな店まで出したりとか。


【三浦】半端ではないお金ですよね。


【和田】そうですね。大散財。


【三浦】大散財ですよね。


【藤山】魚屋だけでそんなに返せたのかとか。魚屋だけでそんな店まで、もう一回大丈夫だったのかとか思ってしまうけれど。


【三浦】よほど腕が良くて、繁盛したということですよね。


【藤山】よほどいい。あの頃の魚って。だって、冷蔵庫がないのですから。


【三浦】そうですね。


【藤山】冷蔵庫がないところで持って……。


【三浦】棒手振りとして、ずっと売り歩いて。


【藤山】売り歩いて結局店を出せたのですね。


【三浦】店出しますよね。


【和田】出しますよね。3年後にね。


【藤山】行商ではなくなって、お魚屋さんを開いたということですよね。すごい。


【三浦】すごいですね。


【和田】関東と関西で、フォークロアの土地が当然違うわけだから、なんかバックグラウンドが違うのですかね。


【三浦】どうなんでしょうね。


【藤山】どうなんですかね。


【和田】最近、『芝浜』を関西に持って行ったりとか、なくはないのだけれど、東のネタなのかなという感じはします。


【三浦】滋賀ということでもない気はしますけれど。


【和田】まあ、そうですね。


【藤山】江戸というのは、はっきり言って、その頃の京・大坂(現:大阪)となると、江戸は違った文化圏じゃないですか。こちらは通貨は金と銀が違ってたとか、もう全然違うわけで、こちらはやはりはっきり言って新開地ですよね。


【和田】そうですね。


【藤山】新開地で、とにかくのべつ幕なし工事をして、どんどん干拓をして。だってあれですよね。江戸城ができたとき、日比谷のところが海岸線ですよ。


【藤山】あそこが晴海までずっと江戸時代中かけて、築地くらいまでは干拓したわけじゃないですか。だからのべつ幕なし若い人を入れなくてはいけなかったし、しかも、3分の2とか半分くらい焼けた大火が6回ありますものね。ちょっとした火事だったら、もう毎年のように起きているでしょ。その度に土木工事が必要ですよね。だから、若い人がいっぱい必要だから、男の人がいっぱいいて、女の人が少ないという人口比で、すさんだところがあったんじゃないの。


【和田】そうそう。


【藤山】だから、女性的なものというか、なんかこう、京都なんて、はんなりとしたとか、なんか大阪のおばちゃんだって元気だ。関西の文化は母性的なものに包まれているような気がする。ところが、江戸の文化はなんかこう、吉原くらいしか救いがないみたいな、そういう人……。だってすしとか天ぷらもやはり、要するにスタンド、立ち食いものですから。ファストフードですから。だから、そういう風なものしかないところで、みんなひりひりしたような、富久のあの寒さみたいな。あの頃は寒かったと思いますよ。だってもう、綿でさえあまり着ていないのですから。綿が広まって、綿入れなんかを着るようになったのは、江戸後期ですから、江戸前期は、綿花栽培はまだそれほどでもないし、下手をすれば、麻とか着ているわけです。


【三浦】麻。寒いですね。


【藤山】もちろん、ウールはないです。もちろん、ダウンなんか絶対ないです。


【三浦】シルクなんて着れる、絹が着られるわけがないですよね。


【藤山】うん。だからもう、寒くて寒くてしょうがなくて、腹が減ってしょうがなくて、女の人はいなくてしょうがなくてという、そういう場所でできた江戸文化だと僕は思うのです。


【三浦】若い人たちというのは、どんどん連れて来られたということなのですか。


【藤山】やはり田舎から出てきたんじゃないですか。


【三浦】自主的に出てくるんだ。江戸行けばなんかある……。


【藤山】うん。まあ、長男ではないやつが、出てくるんじゃないですか。


【三浦】ああ。食いぶちも減るし……。


【藤山】どんどん、そう。それで、あぶれたりするとヤクザとかになっていって、無宿人とかになったりとか。


【三浦】あれとかそうですか。『双蝶々』とかは、やはり結局どこかから来るんでしったっけ?


【和田】落語の『双蝶々』?


【三浦】落語の。


【和田】あれは……。


【三浦】奥州に逐電するんだ。そうだ。


【和田】いったんね。出てきてということなんですけれど。今の藤山さんの話でもある、母性的とか、父性的という言い方があるじゃないですか。


【藤山】うん。


【和田】あれをなんか僕もぼんやりとそういう概念があるというのは分かるんですけれど、どういう意味なのですか。


【三浦】横町でも書かれていますね。


【藤山】それは精神分析の癖ですけれど。まさに乳児というのはまず、自分の心というのは持っていないわけじゃないと思うのです。ものを考えるというよりも、苦しみとかおっぱいが欲しいということをおっぱいが欲しいとは考えないじゃないですか。おっぱいという概念さえないし。だからとにかく、この辺が不快だというのを、「ぎゃー」とこうやっていると、お母さんが意味付けしてくれるわけです。つまり、意味の無いところから、意味を作ってくれて、なんか応答してくれる人が、母性的なものなんです。父性的なものというのは、意味が既にあったところで、お母さんとつるんでいるのに対して、「これは、あんた言っとくけど、あんたとお母さんとのつながりと、おれと嫁とのつながりは質が違うからね。お前はあっちに行っとけよ」と行って、「俺たちはこっちの世界があるから、お前の世界は、子供の世界は違うんやで」と仕分けするわけじゃないですか。つまり、世代が違うとか、もっと言えば近親姦的なものを禁止してというような、より秩序を作って更生していく働きというのが、父親にあるという、父的なものにはあるみたいな……。


【和田】制度ということですか。


【藤山】そうです。制度とかそういうのは、結局そういうことですね。


【和田】うん。


【藤山】つまり、全てのいろんな世代間の境界だとか、善悪だとかそういうものを全部お父さん、お母さん、本人の内面的な心の三角形みたいなものの中で、生まれてくるんだみたいな、そういうのを僕たちは持って、フロイト以来、精神分析は理論としてあるのです。それは結局、別に事実でもなんでもないのだけれど、そういう風に考えると、考えるのが結構楽になる。母親的なものと父性的なものは、だいぶ違うのではないかな。意味が無い、つまり、自分と他人の区別がないところで、何かしてくれる。自分がおっぱいをチュッチュッと飲んでいる赤ちゃんは、別に自分がなんか努力しているとは思っていないんじゃないですか。ただ何か知らないけれど、向こうから来ていると思っているんじゃないですか。それで満足していて。だから、欲望って持つ必要がないわけじゃないですか、ある意味では。最初から合わせてくれて、いろいろやってくれているのだから。


【和田】はい。


【藤山】でも、そこに距離が出てくると、欲望を持たないといけなくなってしまって、欲望を持つとそこで、お父さんというのが出てきて、「お前の欲望はどうなの?」と問うことになってくるのです。


【三浦】ちょっと待てと。抑える。


【藤山】うん。だからその主体としての欲望を持つということの心に登場するのが、お父さんでしょうね。父性でしょうね。と思います。そこの前の……。


【和田】なるほどね。そうすると、例えば『よかちょろ』なんていうのは、あんま何も考えていない、お金も稼がない若旦那に対して、親旦那が「お前そうじゃないんだよ。世の中っていうのはなんとかかんとかで」っていう、まさに制度的なルールみたいなことをやるのだけれど、それが失敗する……。


【藤山】そう。あのお父さんは一番象徴的なのは、下でわいわい二人で言っているところに、「姉ちゃん、死んじまえよ」とか「灰にしましょう。なんとか」と言っているじゃないですか。そこで普通だったら、「孝太郎!」とかって言うはずなのに、「番頭!」と言ってますからね。


【和田】番頭ね。なるほどね。


【藤山】つまり、このお父さんは番頭にやらせようとしている。自分は向き合おうとしないやつなんですよ。


【和田】なるほど。


【藤山】うん。お父さんはそんなやつだし、上に行くと今度は、お母さんがわけの分からないことを言い出したり。もうめちゃくちゃなことを言い出して「いやどっちの種が悪いんだか」とかわけの分からないことを言い出すじゃないですか。


【三浦】畑が。そういうお前も鍬がと言って……。


【和田】「あなただって……」ね。


【藤山】「あなただって鍬が良くない」とか言い出す。


【和田】そうそう。


【藤山】だから全然こう……。だってあの感じだと、どんどん金を若旦那が使って、「もういいじゃん。どうせこのくそおやじが作った金なんか、もうドブに捨てちゃえばいいんじゃないの」と思っているような奥さんじゃないですか。


【和田】はい。


【藤山】奥さんは本当の意味で、自分の亭主を愛していないじゃないですか。もちろん、息子のことだって、可愛がっている風だけれど、本当は将来のことは考えていないし、本当にちゃんとした家族じゃないというという言葉が、露呈するようにできている。そこでグレて行くわけでしょ。完全に(笑)。自分の番頭をゆすったりして、なんかそれを喜んでいるじゃないですか。そのあと。それで山崎屋になっていくわけだけれど。


【和田】あそこの三角形は、せがれが好き勝手をやって、父親は父性の行使を失敗する。母親はある種、ものすごく本当の母親っぽいんです。つまり、「あんまりうちのお金を使っちゃいけませんよ。蔵のお金」と制度的には言わなければいけないのだけれど、そこで「お前も小遣いが足りないだろうからね」みたいなことをするお母さんなわけじゃないですか。


【藤山】だけれど結局、あんなグロテスクなことを言っているじゃないですか。やはりなんかこう、本当に深いところで、この子を愛しているのかなと思うのだけれど、なんかもうお母さんを……。


【和田】ちなみにあのキャラクターは、『木乃伊取り』にも同じ三角形がね。全く同じですよね。


【藤山】全く同じですから。


【和田】あれは本当に同じ人物かというくらい、同じですね。


【藤山】同じですね。あの若旦那との関係は同じです。


【和田】同じですよね。言うせりふも、「あいつには困ったものだ」、「そういうあなただって、なんとかかんとかで」とばあさんが言うせりふが一緒なんだよね。


【藤山】そうだね。僕は今年の1月は、『木乃伊取り』をやったのです。


【和田】あ、そうですか。すごいですね。


【藤山】『木乃伊取り』いいな。あれ。楽しいな。


【和田】『木乃伊取り』いいですよね。


【藤山】本当にもうああいう、いやあ……。


【和田】僕は圓生さんのネタで一番いいと思うのが『木乃伊取り』だな。


【藤山】そうですか。


【和田】うん。『包丁』もいいですけれど、あれも「といった番頭が3日帰らない」とか、最初から面白いのです。なるほどね。だからまた、あれなんだな。何度も名前を出してしまうけれど、談志師匠が、8代目文楽のネタで、『明烏』があり、『船徳』があり、『愛宕山』があり、『寝床』がありって、あるのだけれど、僕はベストが『よかちょろ』と言ったのです。「僕仕事してても、あれが一番いいんです」と言っていて……。


【三浦】文楽の『よかちょろ』が。


【和田】うん。というかまあ、あの時代は文楽しかやっていなかったと思うんだよね。


【三浦】他の人は遠慮してやらないということですか。


【和田】そういうことです。文楽のネタが『明烏』やら『船徳』やら、なんやらと、いろいろいいのがあるのだけれど、談志師匠が選んだのは、『よかちょろ』でした。


【藤山】談志さんは『明烏』はやっていないですか。


【和田】『明烏』やっています。


【藤山】やっているのですか。


【和田】やっています。


【藤山】ほとんど聞かないな。


【和田】あんまりやっていないと思います。


【藤山】『明烏』をやっている音源はありますか。


【和田】あるはずです。


【藤山】随分若い時でしょ?


【和田】そう。晩年はあまりやっていなかったかもしれません。


【藤山】やってないですよね。


【和田】うん。


【藤山】だんだん『明烏』には興味を失ったんだと思うんだよな。


【和田】ああ、そうでしょうね。


【藤山】『明烏』というのも、あれはなんといっても僕が好きなのは、あれだけ「嫌だ」と言っていた若旦那が、最後のところで「いや、なんかもう良かったです」みたいになってしまうじゃないですか。あの……。


【三浦】あそこはかなりエロチックですよね。


【藤山】だけどあれは、なんていうのかな。本当にあれでいいのかというか、女と寝ちゃったら、世界の認識が変わるというのは、当たり前ですよという世界で、女の体は魔術ですみたいな、そういう話じゃないですか。女の人との関わりとかは特にないわけで、ただ女性性、セックスというものだけが何かすごいものを生み出すというような感じで。なんか……。


【和田】でも談志さんが面白かったのは、『明烏』というのを、あの方は演目の意図みたいなものを、自分で口で出して言ってしまう人だから、言っていたのは、あれは男にとって女性の体は怖いものだということを言っているのが、『明烏』だと言ってる。


【藤山】そうそう。まあ、そうですよね。あれだけ恐怖していたんですよ。これは書いたけれど、精神分析でも、歯の生えた膣という、有名な概念がありまして、食われてしまう。入れちゃったらペニスをもぎ取られてしまう、入れちゃったら。だから、女の人の体というのは、やはり奥まっていますから、怖いですよね。男は……。


【和田】うん。


【藤山】うん。男は全部さらしていますけれど。


【三浦】逃れられなくなる。


【藤山】奥まっているから、中で何が起こっているか分からないよ。


【和田】だから、そうだね。普通のというか、こういう風にして若旦那がハッピーでしたねという解釈、筋はそうなっているのだけれど、この話の狙いは、そうなんだよと言っていました。


【藤山】そうですよね。最後になぜか、いい思いをするのですね(笑)。


【和田】そうそう。


【三浦】いい思いをする。


【和田】僕はでも、ちょっと話はそれてしまうのだけれど、『明烏』というか、落語の名も知らぬ作者は、よくできているな、よく作ったなと思うのが、つまりあれは、『明烏』では時次郎という人が、吉原に無理やり連れて行かれて、女の人の体に入る話じゃないですか。


【藤山】そうですね。


【和田】入門する話でしょ。


【藤山】そうですね。


【和田】で、その話に前半はあの吉原の大門の話がめっちゃ出てくるのです。


【藤山】そう。門のところに番人がいる話になるんだよね。


【和田】そうそう。


【藤山】その入る、入らないということのシンボルが、うまく使われている。


【三浦】なるほど。そうか。


【和田】そうなんです。門が出て、あそこは一度入ったら出られないんだよとか、あそこに門番がいるんだよとか、象徴なのです。大きな門と肉体の門と、その両方が出てくるわけ。あれはすごいなと思います。あれはだって、鳥居のくだりが無かったら面白くないもん。多分。


【三浦】そうですよね。


【藤山】そうですね。あれは。しかも鳥居を入ったすぐそばで、小便に行くでしょ。あれもなんとも言えないんだよな。そのメタファを考えると、あそこで小便に行くのは、結構必然性がある気がしてしまうわけ。


【和田】なるほど。そういうところがまさに、フォークロアぽいんだよな。


【藤山】そう。


【和田】一人の人の知恵というよりも、それが集合してできてきたんだということ……。


【藤山】そんなこと意識しているとは思わないんだけれど、ペニスの使い道の、もう一個のほうを捨てて、尿のほうではないほうに行く話じゃないですか。あそこでおしっこに行くわけですよね。最初のところで。あれもなんとも言えない。なんとも言えないですよ。あれは本当によくできている。確かに。


【三浦】「さげ」も大門で止められるんですよね。


【和田】そうそう。


【藤山】「大門で止められます」


【和田】「止められます」というのがね。


【三浦】そこも何かの象徴があるのですか。


【和田】だから結局、ここの中にもう入ってしまったんだから、もう出られないぞと言っているんじゃないの。


【三浦】ということですよね。


【藤山】そうですよね。出るのだったら、みんなで出るしかないんですよみたいなところもありますし、なんかこう……。


【和田】いろいろ取れますよね。


【藤山】いやあ。


【和田】そうすると落語の演目というのは、大体『よかちょろ』やらなんやら『木乃伊取り』とかもそうだけれど、さっきの分類でいくと、父性的なものが失敗する、成立しないというシチュエーションを割と描いているのですか。


【藤山】全体的に要するに、何かが結実して前に進むというのは、『芝浜』はそうだけれど、そういう人情話は、そういうのがあるけれど、大抵のは何をやっても同じところに戻って来ましたみたいな話ばかりで、つまり、何かが生み出されて生産的になっていくのではなくて、人間は、反復してます、反復的な不毛な世界におります。これを談志は業と言っていると思うけれど、そういう話で、結局母親と父親が子供をちゃんと育てたら、ちゃんと駆動して、うまく駆動できれば彼自身の世界を見いだして、この世界で生産していくはずなのです。だけれど、それがうまくいかないから、どこかでつっかえている。つっかえているさまみたいなものをどんなに大人になっている人の心にも、なんか自分の思い当たるところがあるのです。つっかえている部分が。そこをつい見せてくれるようなものだなあと思います。だからこうやってね……。


【和田】なるほどね。よく分かった。


【三浦】そこが面白いということですか。


【藤山】そうだと思います。落語、うん……。


【三浦】なんか自分、聞いているほうにも思い当たることが……。


【藤山】それは意識は全然しないと思うのです。意識を、無意識の中にそれがあるから、なんとなく面白いのですよ。


【和田】そうか。なるほどね。分かった。僕すごく今分かりました。つまり、僕の友人で、僕自身が落語ファンだからということもあるのだけれど、仲良くなったり、話が合うと思う人って、落語が好きな人が多いのです。


【三浦】ああ。


【和田】それはなぜかというと、その人たちというのは、いちいち言語化はしていないのだけれど、同じところに戻ってくる、ちゃんとした制度がうまくいかない。でも、そういうものだろうという、共通項があるのです。たぶん。それで逆に言うと、そこで父性的なものをちゃんと取り込んで、何かを結実する。ビルが建つとかいう人は、落語は必要ないのです。多分。


【藤山】まあ、そうかなあ。


【和田】そうじゃないかな。僕はそこで結構分かれるような気が。そういう人はどういうのが好きなんだろう。でも落語じゃないような気がする。


【三浦】結実する人は。


【和田】結実する人は、芸術が好きだとしても、他のもののような気がする。


【三浦】何が好きなのですか。


【藤山】なんかやっぱり、落語が好きなんですよね。「やれやれ」みたいな感じじゃないですか(笑)。


【三浦】ああ。そうですよね。


【藤山】「僕は落語大好きなんですよ!」とか、そういうのではないんじゃないですか。やっぱりなんか。そう僕は思いますけれど。なんかこう、「やれやれ」だなあって思う。僕の落語との最初の出会いは、幼稚園の時にラジオを聞いて覚えちゃう。次の日に先生の前でやるという。先生は女の先生できれいなので、それですから、受けを狙う。受けを狙わなければいけないような何かそういう気持ちがあったわけです。もうすでに。落語って、たった一人でみんなの受けを狙っているわけじゃないですか。そこがもう、芝居とかオペラと全然違うじゃないですか。芝居とかオペラとか、いっぺんに何十人もそこにいたりするんですから。やっぱり、たった一人で受けを狙うということをやらなければいけない人が、やりたくなるような芸なんだろうなあと思うのです。


transcribed by ブラインドライターズ<http://blindwriters.co.jp/



担当:駒田 泰彦

いつもご依頼いただきありがとうございます。

江戸の昔も現代も、人間の悲喜こもごもは変わらないということを、改めて感じたお話でした。『よかちょろ』はじめ、また聞いてみようと思います。

またのご依頼を心よりお待ちしております。

 

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