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The Beach Boys「Big Sur」

今日の曲は、The Beach Boysの「Big Sur」。

ザ・ビーチボーイズはアメリカ西海岸の若者文化、特にビキニの娘、サーフィン、ホットロッド(改造車)、海などをテーマにしたポップな楽曲で知られている。

1963年にチャック・ベリーの作品をアレンジした「サーフィン・U.S.A.」がヒットし、以後もフィル・スペクターやフォー・フレッシュメンからの影響をもとに、エレキ・サウンドとコーラス・ワークをミックスした楽曲を数多く発表した。

日本では山下達郎や大瀧詠一、桑田佳祐らが熱烈なファンとして知られている。海外ではザ・ビートルズ、ファースト・クラス、ルベッツ、トッド・ラングレンらがビーチ・ボーイズの影響を受けている。

音楽的なルーツは、ジャズ・コーラス、ロックン・ロールやホワイト・ドゥーワップにある。コーラスはフォー・フレッシュメンを参考にしている。初期のウェストコースト・ロックにおけるポップな側面を代表するグループであり、アメリカン・ロック界では一部のミュージシャンがそのコーラス・ハーモニーの影響を受けている。

現在は、結成当時のオリジナルメンバー5名のうち、2名は故人となっているが、明確な解散宣言はしておらず、オリジナル・メンバーを含む数名がバンド名を引き継ぎ、ライブを中心に活動を続けている。最盛期に多くのヒット曲を送り出した中心人物であるブライアンはソロ活動を行っている。

バンド結成時当時流行していた、サーフィン&ホットロッドと呼ばれる楽曲群は、単純なコード展開にギターソロを加えたインストゥルメンタルが中心だった。ここにロックン・ロールと異なる分野の音楽と思われていた、フォーフレッシュメンなどを代表とするコーラスによるハーモニー、ファルセットを乗せたところにビーチボーイズの特徴があった。

初期の楽曲群はポップなロックンロールやポップスであり、当時の流行に沿ったものだった。しかし、ソングライターでもあるブライアン・ウィルソン自身がアルバムのプロデュースをおこなうようになって以降、一見シンプルに感じられる楽曲でも、実際には複雑なコードが使われ、アレンジにさまざまな工夫が施されるようになった。

ビーチ・ボーイズの16枚目と17枚目のアルバム『Sunflower』(1970)と『Surf’s Up』(1971) のリリースから約50年、バンドのキャリアにおいて重要な1969~1971年を振り返るにふさわしい未発表音源108曲を含む全135曲を収録した5CDボックス・セット『Feel Flows – The Sunflower and Surf’s Up Sessions 1969-1971』が2021年8月27日に発売された。それを機に『Surf’s Up』のために録音され50年間未発表だった今回の曲「Big Sur」 も発表された。

曲名の「Big Sur」は、アメリカ合衆国カリフォルニア州のセントラルコーストにある人口の希薄な地域である。その地形は絶景の連続であり、人気のある観光地になっている。ビッグサーが比較的孤立している立地と自然の美しい景観があることで、作家や芸術家をあつめるようになった。

ザ・ビーチボーイズは1973年のアルバム『オランダ』においてカリフォルニア・サーガ3部作をビッグサーの岩だらけの荒々しさとその住民の文化をノスタルジックに表現している。

そんな美しい光景を巧みに表現した楽曲だが、このアルバム製作の経緯を調べてみると、その美しさを裏返すような出来事があった。

リーダーのブライアンは1965年12月に発売されたビートルズのアルバム『ラバー・ソウル』に衝撃を受け、対抗心を燃やした。そして、当時ポップ・ミュージックとしては珍しい完全なコンセプト・アルバムを作ることを考えた。それが『ペット・サウンズ』である。

同アルバムはブライアン・ウィルソンの最高傑作と見なされ、多くの音楽評論家が最良のポップ・アルバムやロックの名盤と評価されている。しかし、当時はそれまでの彼らのイメージとはかけ離れていた作品であるため、契約していたキャピトル・レコードから敬遠され、保守的なアメリカのファンにもなかなか受け入れられなかった。対してイギリスでは好評で、元ビートルズのポール・マッカートニーや、ザ・フーのピート・タウンゼント、エリック・クラプトンが好きなアルバムとして挙げるなど、一部には理解者がいたが、このアルバムが見直されるには、かなりの時間が必要だった。

全米チャートでは10位にランクインし、早々に50万枚を売り上げたが、それまでの作品に比べて売上の伸びない状況に不満を感じたキャピトル・レコードは、ペット・サウンズの発売後すぐに、それまでのヒット曲を集めたアルバム『ベスト・オブ・ザ・ビーチボーイズ』を発表した。ベスト盤は瞬く間に100万枚を売上げ、ペット・サウンズよりもヒットしてしまう結果となった。この事実にブライアンは酷く傷つき、その傷はその後長くブライアンを蝕むことになる。

スタジオでの完全主義ゆえに彼は『ペット・サウンズ』以上の作品を作り出さなければならないという強迫観念に駆られ、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の録音と期間が重複していた『スマイル』の制作中にノイローゼになった。

一日の大半をドラッグとアルコールに依存するようになったブライアンは、アルバム内の曲「エレメンツ」録音時にスタジオ内で消防士の格好をしたり、キャピトルの重役夫人を悪魔呼ばわりしてその重役のスタジオ入りを拒否したり、奇行が見られるようになった。また、スタジオでのエフェクトに凝り始めたブライアンと、グループの持ち味であるボーカル・ハーモニー路線を支持したマイクを始めとする他メンバーとの方向性に対する対立も深まった。モジュラー・レコーディングといういくつかのテイクの断片を組み合わす方式は、編集段階でもさらに精神的混乱を巻き起こした。

『スマイル』はキャピトル・レコードの再三のリリース要求にもかかわらず結局完成せず、1967年5月にキャピトルはこのアルバム発売をキャンセルした。ブライアンの精神状態の悪化や事実上のドロップアウトにもかかわらず、バンドはさらに活発に活動を続けた。

1970年の『サンフラワー』でキャピトルレコードを離れ、ワーナーブラザース傘下のリプリーズに移籍する。また、本格的に自分たちのレーベルであるブラザーレコード名義で作品を発表するようになる。1970年代を通してブライアンの活動は低調で、1973年の『オランダ』も複雑な評価を得た。

1972年、『カール・アンド・ザ・パッションズ - ソー・タフ』がリリースされた頃、マネージャーのジャック・ライリーはビーチ・ボーイズに、場所を変えてレコーディングを行えば気分転換になってインスピレーションも湧くとして、次回作をオランダで製作することを提案した。メンバーはブライアンの鬱病にも効果があると楽観的に考え、その提案に同意した。

しかし1972年の中頃までブライアンの精神疾患は悪化し、薬物の乱用も拡大していた。彼は以前に比べて寡作になり、メンバーはブライアンの創造力が回復することを望んでいた。ブライアンはオランダ行きを望まず、飛行機への搭乗を2度キャンセルし、3度目でようやくオランダ入りした。しかしブライアンはオランダでもドラッグ浸りで毎日を過ごし、アルバムの録音はカール・ウィルソンを始めとする残りのメンバーで行わなければならなかった。

この後もビーチ・ボーイズには不幸が重なっていくのだが、それはまた次のお話で。


今日の写真は、ビバリーヒルズ青春白書のディランマッケイ(なだぎ武)だ。

同ドラマはアメリカの西海岸側が舞台になっている。それだけ。

当時すごい人気だった。元ネタは全然知らなかったけど、おもしろかったなー。アニメ『ケロロ軍曹』でも歌とか出してたよね。


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二軍のプレイリスト


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