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考え事#41 フレームと自由②自由の潜在化

この記事は、前回記事の続きとして書いている。
良かったらこちらからお読みいただきたい。

学習性無力感によるフレームへの順応

例えば、言論の自由にしても、本当の意味で自由に言論することは案外難しいものだ。特に最近では、この発言は誰かにとって差別的な発言になってしまっていないだろうか?と相当気を遣う必要がある。そのうえ、何となく空気的に自由な発言が難しいみたいな謎な文化が組織や集団の中に蔓延していたりもするだろう。

この不自由さの正体が、僕らが受けてきた教育による学習性無力感にある、というのが今回僕が述べたい論である。

学校というフレームの中で、社会とはなんぞや、というモノを吸収する成長期を過ごして多くの人は成長する。そして、そのフレームを勝ち進んだ人々という生存バイアスばりばりの集団が基本的には組織で勝ち残ってきたはずだ。"長い物には巻かれよ"とか、"出る杭は打たれる"といった諺が存在すること自体が、良くも悪くも日本の古くからの文化ともいえる。もっとも、現在の状況はきっと"長いものとは一体何なのか?"とか、"出る杭はどの方向に出ているのか?"みたいな、諺自体に問いを投げかけたくなるような状況である気もするが・・・・。

いずれにしても、フレームの中で9年なり12年なり我慢して大学に進んだり就職したりする過程で、"壊れないフレーム"に慣れ切って大人になってしまう。そして、フレームの中で自由を求めて叫ぶのも、いつしか億劫な大人になってしまう。

自由の潜在化

こうしてフレームに慣れ切ってしまうと、どこかでフレームが外れた環境に身を置くことができてもその頃にはすっかり自由が潜在化してしまい、自由を上手に行使できなくなってしまう。他者の視線ばかりが気になり、自分の内なる声が聞こえなくなってしまう。

自由にやってごらん
好きにやってごらん

こういうことを例えば生徒や後輩に伝えても、なかなか思っていた感じで動かない、場が活性化しないということは無いだろうか?

自由が潜在化してしまった状態では、こういった声掛けは真っすぐに相手に入らない。この場合、実は裏側に何かのフレームがあるんじゃないか?という疑念も生じているだろうし、そもそも自由に何かをするとはいったいどういうことなのかわからない。ということなのだろうと思う。

自由を行使する技術

本来的に、つまりは生物的に、人間は自由を行使する技術やスキルを持っているはずである。小さな子供はいつの時代だって自由に振る舞う。社会性を獲得する過程で、一時的にフレームを用いて自由を制限するという方法論がある年齢層まで用いられるというのも理解できる。

今までの学校教育は、そこまでで止まってしまっているのではないだろうか。社会として、大人としてフレームを与えてしまっている以上、ある程度の年齢でフレームを解いて自由を顕在化させるための手法が本来的にセットにならないといけないのではないだろうか。

次回フレームの種類や、教育とフレームの関係について述べてみたい。

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