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考え事#20 古き良き時代の罠

古き良き時代

そんな言葉を聞いたことがあるだろう。
この古き良き時代、きっとある程度の年齢になった人は誰もが認識できる概
念だと思う。今日はこの言葉をスタートに書いてみようと思う。

「古き良き時代」の定義

自分にはあんまり関係ないや。
って思った高校生、大学生、若者のみなさん。
あなたは、過去の自分を振り返って、あの頃楽しかったな。なんて思ったことはないだろうか?

古き良き時代とは、つまるところその「ざっくりと懐かしい感覚」のことを指すのだと思う。

例えば僕は高校生の頃、中学の思い出で楽しかったことが多すぎたせいで、しばしば「中学時代に戻りたい!」と思うことがあった。これはまさに、自分史上における古き良き時代への懐古に他ならない。

当時の僕なりに、本気で「あの頃に戻る」ということを考えたことがある。

例えば夏休みのどこか一日、出身中学を貸し切って、登校時間に同級生全員で集まる形の同窓会が実施できないだろうか?

無論、そんなことは達成できる訳もなく、胸の内で浮かんで消えてしまった。そもそも、そこに正式に所属している人間ではない人達が仮に同じように集まることができたとしても、それはホンモノではないのだろうな、と当時の自分なりに考えて、途方に暮れた。

同じ人が、年を経て集まっても、当時と同じ状況を作ることはできない。
こんな当たり前のことでちょっと悲しい気持ちを覚えた思春期の自分がなんとも恥ずかしい。

話が逸れたが、「古き良き時代」という概念は、誰にでも存在するであろう、「戻れるのであれば戻りたいと感じてしまう過去のどこか」であるとここでは定義したい。

バブルの崩壊と古き良き時代

僕は幼少期から、年齢的に20才も30才も上の方と話す機会が恐らく平均的な同世代と比べても多かったのではないかと思う。
それもあって、大人と呼ばれる色々な人たちと話してきた。
記憶している限り、割と多くの割合で当時の大人はこう言っていた。

昔はよかった

きっと僕の幼少期は、バブルがはじけた直後だったからだと思う。
自分も大人になったいまならちょっとだけ想像できる。
明るく上向きに成長している日本なんて僕は知らないけれど、
そういう過去に生きた経験があるならば、きっとそこにいたすべての人にとって、共通の「古き良き時代」があったのだろう。

でも、僕はそんな古き良き時代は知らない。
だから、そういう発言を20歳も30歳も年下の僕に放つ大人が嫌いだった。
だって、僕が楽しく生きている今を馬鹿にされているみたいじゃないか。

そんな自分だったにも関わらず、前述した通り、高校生の頃の僕はあろうことか、そんな大人たちと同じことを思ってしまったのである。

結果、当時の僕は深い自己嫌悪に陥った。
なんだ、自分だってあの大人たちと同じじゃないか。

そして反省し、自分は過去の自分を羨む人生を歩むのを辞めることを誓った。この誓いはおそらく守りながら生きて来れていると思う。

古き良き時代の再来は、叶わない

さて、ここまで書いてきた「古き良き時代」なのだが、
果たしてなぜその古き良き時代は再来しないのだろうか。
皆が古き良き時代という黄金時代を再現しようとしたら、それは可能なのではなかろうか?
先に「嫌いだった」なんて書いた手前やや言い辛い部分もあるが、何なら僕だってその「古き良き時代」を謳歌してみたい。頑張ればぐんぐん給料が増えて、欲しいものは今より沢山買える。そんな生活が再現できるなら是非とも協力したいものだ。しかし、これは叶わぬ夢だ。それを裏付けてくれる自然界の現象があるからだ。

不可逆過程

というのを僕が初めて目にしたのは高校の物理の授業だった。
物凄く単純な例でいえば、コーヒーにミルクを入れて混ぜた場合、自然に元の「コーヒーとミルクに分離された状態」には戻ることができない。ということだ。

人間を含む、生物の活動というのは基本的に不可逆過程だ。

歳をとる
病気になる
ごはんを食べる
学ぶ
考える

どれを取っても、その行動をする前の環境を再現することは不可能だ。
いまこれを読んでいる間にも、あなたの血中のヘモグロビンは、先ほどとは別の酸素と結合している。もしかしたらいま、髪の毛が1本くらいは抜けたかもしれない。
普段自分だと思っている身体だって、こうして常に変化している。

そんな人間が作っている社会構造や文化も、当然のように不可逆過程だ。
だから、潔く諦めるのが肝要だ。
そうでなければ、あまりにも極論であることは理解しながらあえて述べるが、僕らは狩猟採集生活に戻らなければならなくなる。そんなことはほとんどの人は望まないだろう。
僕がいまこうして、冬の寒い夜にも関わらず、温かい部屋でPCを使って記事を書くことが出来ていること自体が、過去のすべての人間が、その時々の古き良き時代を振り切って進んでくれた結果だ。でなければ、今きっと僕は、凍えそうになりながらどこかの洞窟で壁画を書いていることになってしまう。
だから、そんな歴史の地層である古き良き時代に感謝しながら、僕らも常に、自分にとっての古き良き時代を捨てる覚悟を持つべきだと思う。

古き良き時代を諦めた先にあるもの

2022年、ワンピースの映画の主題歌がものすごい勢いで流行した。
皆さんご存知の通り、Adoさんの歌う「新時代」だ。

この歌詞は多くの人にとって希望の歌になったのだと感じる。
僕は歌詞を読むだけで結構泣けてくる。

古き良き時代を諦めた先にあるものは、まさに新時代だろう。
新時代を作るのは、僕であり、あなただ。
そんな僕たちが今、まさに危惧しないといけない問題がある。
最後にそこに触れて、この文章を閉じる。

Afterコロナをどうデザインするか

この3年間、ロックダウンにきわめて近い状況から始まり、
少しずつ規制を緩めながら社会は大きく変化してきた。
バブルを知らない僕より下の世代も、バブルを知っている僕より上の世代も、等しくコロナ禍という状況を経験した。

バブルの話題では、僕は上の世代と本当の意味でわかり合うことができない。経験がないからだ。

でも、コロナ禍の話題では、コロナ禍の記憶を共有するすべての世代の人たちとわかり合うことができるだろう。

だからこそ、危惧せねばならない。
今後、2020年代に生まれた世代が社会構造に組み込まれていく過程で、コロナ禍を経験した世代は等しくその話をどう伝えるか考えなければならない。(いや、そんなこともないのかもしれないけれど、僕はコロナ禍に関する自分の発言で、下の世代にかつて自分がバブルに対して思ったような感想を抱かせるのは嫌だと感じる。

確かに思うところはある。
僕はコロナ禍という環境を割と前向きに捉えて、色々チャレンジして充実した日々を送れたと感じている。だから、注意しないとこう考えてしまうことがあり得る。

コロナ禍の状況は素晴らしかった。
もう一度あの形を目指すのはどうだろうか。

Twitterなどを見ていると、例えば大学生の投稿で、
「コロナ禍はオンライン授業だったため非常に快適だった。コロナ禍が終わっても全部オンラインでいいのに。」といった発言も散見される。

気持ちはわかる。

しかし、僕は思う。その発言は古き良き時代を手放せない大人の感覚だ。

2023年、5月にCovid-19は日本国内では第5類感染症に改訂されそうな状況である。

僕らが目指すべき未来は、
Beforeコロナでもなく、Withコロナでもない世界だ。
Afterコロナの世界を、そこに生きる我々一人ひとりが自分なりにデザインして動くことが鍵だ。

その過程は、かつてWithコロナに向かって、Beforeコロナの価値観を変革したあの時と同じように、もう一度設計図を書くことが求められるだろう。
Beforeコロナの価値観を捨ててWithコロナの価値観を模索する日々はものすごく苦しかった。

Withコロナの価値観を捨てて、Afterコロナの価値観を模索する日々も、きっと多くの苦しみを内包することになるだろう。
でもきっと、僕たちはそこを乗り越えて、新しい何かをデザインする力をもっている。自分なりに、一歩一歩進んでいきたいものだ。

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