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『鑁阿寺』を訪ねて ー足利氏の菩提寺ー


 「鑁阿寺」|《ばんなじ》と、読みます。栃木県足利市の寺院で、本堂は国宝に指定されている名刹です。東武鉄道 伊勢崎線 🚉足利市駅から徒歩で30分ほど。
 鑁阿寺のバンナとは、ご本尊の大日如来を🇮🇳インド サンスクリット語でそう呼ぶからです。

 途中、👩‍🎤歌手・森高千里さんが歌ったことで全国的に有名になった渡良瀬橋を遠目に見ながら、足利市を南北に分断している渡良瀬川を渡河します。
 ちなみに、🎵『渡良瀬川』の作詞は森高千里さん自身で、並みのアイドルでは有りません😱
 渡良瀬川は利根川水系の支流でも一級河川。流路延長は107.6km。利根川水系の支流でも代表的な河川です。

【足利市を流れる渡良瀬川】
遠くに見える鉄橋が歌に歌われた渡良瀬橋です。橋梁には歌詞の碑文がありました。

 欧州の都市のように、川を渡ると旧市街が広がるような佇まいがあり、🚆JR両毛線は渡良瀬川と並行してを走っています。
 街の中心は鑁阿寺を中心にあると言っても過言ではありません。寺院の周囲は水堀で囲われ、鯉や🦆も優雅に泳いでいました。
 この下野国足利庄を本所としていたのが足利氏です。源氏の血筋を引きますが、足利氏も本家・分家を一門衆と呼び、斯波氏・仁木氏・細川氏・一色氏・畠山氏に吉良氏、今川氏も含まれ、同じ足利二匹両が家紋です。
 今川氏の家臣で瀬名に起居していた瀬名氏も同じ家紋です。

「静岡市葵区にある光鏡院】
瀬名氏の菩提寺である光鏡院の寺紋も二匹両です。

 足利氏二代目・義兼と源頼朝は従兄弟で、頼朝の勧めもあり北条政子の妹・時子を娶り義兄弟の仲でした。
 尊氏はその足利氏の八代目で、ほとんどが鎌倉で起居していました。
 それだけに逆賊の汚名を蒙った室町幕府の初代将軍・足利尊氏。さぞや、ご無念のことと拝察申し上げます。

【足利市鑁阿寺参道に立つ足利尊氏像】

 足利尊氏は元来、お人好しで気前がよく細かいことを気にしない大らかな人物でした。実弟・直義は一歳違いで、実務派。兄・尊氏を公私と共に支えていきます。

【丸に二匹両の家紋】

 足利家の家紋は丸に二匹両。横二本の直線は雌雄の🐉龍を表し、番いの🐉龍が仲睦まじい様から仲違いしない家族全員の結束を願った縁起の良い家紋です。
 その家紋通り、当初の足利尊氏・忠義兄弟は荷車の両輪のように役割分担して力強く家人たちを束ねて鎌倉幕府倒幕、後醍醐天皇の建武の新政を追いやって来ました。
 後醍醐天皇は堪らず吉野に逃げて、南朝を営み始めてしまったことで、足利尊氏は逆賊となってしまいます。

【伝 足利尊氏像】
武士の棟梁・源頼朝より温和な感じがします。

 尊氏は人がいいだけに、どちらにも良い顔をして双方から信用を失うことがあります。鬼になりきれない人って、いますよね。脇が甘いのですが、そこが尊氏の長所とも言えます。

 戦場での古傷が悪化し尊氏は54歳で歿し、京都衣笠山の麓で荼毘に付され、京都市北区等持院北町にある臨済宗天龍寺派の寺院・等持院に埋葬されます。
 足利氏の菩提寺ですが尊氏の墓はそれほど大きくはありませんでした。
 等持院はかつて、現在のところ三倍ほど広かったが寺院の経営が苦しく、隣接する立命館大学に切り売りしてしまい、今になっているようです。

 余談ですが、父が東海大学の附属高校で教鞭を取っていた一時期、足利家の当主で足利惇氏(あつうじ)氏が東海大学の学長を務めておいででした。
 ある日、学長公用車が止まって後部座席を開けたら、ちょうどそこが水たまり。
 運転手と秘書の方は慌てて車を動かそうとすると、惇氏学長は何事も無かったように、平然と水溜まりに足を置いて、濡れることも厭わず歩いて行ったといいます。

【東海大学 4号館 】
教務課 学長室 中央図書館があります。

 父は生前、足利家の方々は代々、お人が良いと言っておりました🗣

ー閑話休題ー

下野国足利郡の荘園・足利庄は源義家が開発して安楽寿院(鳥羽上皇が建立した京都市竹田にある寺院)に寄進した由緒ある荘園です。
 この寄進は中学生の頃に習った「不輸不入の権」と言って、本来なら荘園には現在で言う税金が課されるのですが、寺社勢力に寄贈することで課税が免除されるだけでなく、不入と名が付くように、荘園などの徴税を司る地方官吏の出入りを禁止し、さながら治外法権のような特権が寺社勢力には認められていました。
 そのため、全国の荘園はこぞって寄進します。その中でも、安楽寿院を擁する八条院領は全国に220カ所にも及ぶ荘園を有していました。

【静岡市葵区建穂にある建穂寺 本堂】


 一例を挙げれば、静岡市葵区羽鳥にある建穂寺《たきょうじ》は、久能寺と並び駿河を二分する大寺院がありましたが、この羽鳥地区は羽織荘と言って、八条院領でした😱
 鳥羽法皇の👩🏻皇女・八条院暲子内親王《しょうし/あきこないしんのう》は生涯独身でしたが、莫大な蓄財を成し、その財力で以仁王《もちひとおう》が源頼政と挙兵した平家打倒のクーデター資金を拠出していました。
 以仁王が八条院の猶子であったためと思われます。

【京都市北区の等持院】
等持院には歴代の室町将軍の木像も安置されています。

 この八条院領はその後、昇子内親王→順徳天皇→後高倉院→安嘉門院→亀山院→後宇多院→昭憲門院→後醍醐天皇に伝わり大覚寺統の経済基盤となります。
 足利尊氏は北朝となる持明院統を擁立するも、八条院領を継承した大覚寺統の南朝の財力は侮れず、尊氏時代は南北朝並立となり、南北朝時代に入ってしまいますが、実は足利荘も八条院領で室町時代のややこしい歴史そのままです。

【等持院の庭園】
この時は等持院が改装中のため、歴代将軍の木像が移されていたため、撮影出来ませんでした🥲

 臨済宗天龍寺派の寺院で山号は萬年山。三代将軍・義満が建立した京都五山第二位・相国寺の山号と一緒ですね。

【京都五山第二位・相国寺】
臨済宗相国寺派相国寺も山号は萬年山。同志社大学のキャンパスに隣接しています。

 鑁阿寺の創建は建久七年(1196年)、足利家二代目・義兼が発願し、足利邸内に持仏堂を建てたのが起源と言われています。

【熱海 走湯山】
源頼朝と政子が毎年の正月に、二社詣に参詣する⛩伊豆山神社の近くにあります。

  義兼が男子出世を祈願するため、伊豆走湯山の理真上人朗安(りしん しょうにん ろうあん)を招いたことが始まりだそうです。 頼朝といい、従兄弟の義兼といい信心深い武将です🙏🏻

【鑁阿寺 山門】
水堀を跨ぐように架けられているのが楼門です。

 山門を潜ると、国宝となった本堂と鐘楼が参道越しに視界に入ります。やはり、ここ鑁阿寺でも時を告げる鐘楼があり、腕時計⌚️が無かった時代に、時を刻み時を告げることが如何に大切なことだったかが窺い知れます。
 蔵人頭・藤原実資が綴った日記📖『小記目録』にも暦を正確に造るため、証昭なる僧侶と曆博士・賀茂道平が協議して天皇に奏上するために、長元三年七月四日 乙卯(新暦 1030年8月5日)に、現在の内閣官房長官にあたる実資経由で関白・藤原頼道に相談する既述するくだりがあります。
 鐘楼が単なる飾りやその寺院の裕福さを象徴する飾りでは無かったのです。

【国宝 鑁阿寺本堂】

 鑁阿寺本堂の建立は、建築部材の放射線炭素調査で、1299年と判明し、尊氏の父、7代目の貞氏(浄妙寺殿)が上棟が行われます。
 📺大河ドラマ『太平記』では、主演・真田広之さんが尊氏、父・貞氏を名優、緒形拳さんが演じておられました。

【鑁阿寺 】
                        

 背景にあるのが、経堂。本堂の瓦は一枚3kgもある重い瓦で、本堂の屋根に3万2千枚も載っているとのこと。
 敷地面積4万平方メートル、坪数にして1万2千121坪。個人宅の一軒家の平均が30坪とすれば、約400倍の広大中敷地です。
 周囲を土塁と堀で回らし四方には門があり、寺域は武家の館跡を思わせています。

【鑁阿寺 鐘楼】

 鎌倉末期に描かれた鑁阿寺には、堀の外に12の支院があり、足利氏には特別な場所でした。

【鑁阿寺】

 鑁阿寺の池には錦鯉も優雅に泳いでいます。

【鑁阿寺庭園】

 楼門脇に休憩所と売店があります。

【足利名物のシュウマイ】
もっちりして、美味しゅうございました😋

 楼門近くの売店で焼売と🍺❣️
足利の名物が焼売とは知りませんでしたが、美味しいければ、それでよし👍🏻

 隣接する日本最古の高等教育機関・足利学校にも寄ってきました。さながら、今の大学にあたるのでしょうね。
 ここには曆を勉強しておられる方なら、ご存知の三嶋曆の最古の記録が残っています。
 残念ながら、宝物など資料は撮影禁止なので、登載は出来ませんが、歴史的意義がある遺構です。

【足利学校跡】

 足利学校が海外にまで知られるようになったのは、イエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエルが書簡で足利学校を紹介したからです。
 また、中世日本を記した『日本史』でも有名なルイス・フロイスも足利学校を紹介して、宣教師たちに布教の障害となると、警戒させるほどでした😱

【足利学校の学校門】
【足利学校】

 鑁阿寺と隣接した場所に足利学校を設けたことに足利氏が関与していました。
 さながら、鑁阿寺の学問所という位置付けであったと思います。
 重要な施設である孔子廟は撮影禁止であったため、撮影しておりません。

【足利学校の庭園】

 庭園に出ると、月桂樹の植樹がありました。

【足利学校 月桂樹植樹】
東郷平八郎提督の手植え。明治39年とあるので、日本海海戦勝利後に植えられたもの。

 植樹の隣りにある🪧にびっくり‼️
東郷平八郎提督の名が刻まれています。

【横須賀 三笠記念艦前に建つ東郷平八郎提督像】
背景にあるのは戦艦・三笠。
日本海海戦時にマストに掲げたZ旗が翻っています。

 何で、ココに⁉️
調べてみたら、日露戦争終結後に東郷提督、上村提督、伊東提督の三人がこの地にわざわざ訪ねて来て、月桂樹を植樹したことが解りました。
 東郷提督は若い頃、🇬🇧英国ポーツマスに官費留学するほどの秀才で、テムズ商船学校で学んだ国際法が後の日清戦争時に役立ったことから、勤勉であることの大切さを誰よりも知っていた海軍軍人でした👏🏻

【足利学校 月桂樹植樹】
上村彦之丞提督は、日露戦争時は、第二艦隊司令官で東郷提督と共に月桂樹を植樹しました。

 上村提督の隣りが伊藤提督で、伊藤提督は初代連合艦隊司令長官で日露戦争時は海軍軍令部長の要職にあった方です。

足利学校も辞し、再びトコトコ歩いて東武伊勢崎線足利市駅で、特急列車「りょうもう」に乗って帰路につきました。
 🚃東武鉄道 乗車券990円
   💺特急指定席券1050円の片道2040円也。
所要時間は2時間を2分ほど切る118分。
 JR両毛線で足利駅から小山経由で上野までが1980円ですが、所要時間は2時間24分。
 結果、
 帰路も🚃快適な東武鉄道の特急に乗車し、浅草へ出ました。

【東武鉄道 🚉浅草駅】

 東武伊勢崎線足利市駅の売店で販売していた地元でしか入手出来ない足利通ならではの📙を見つけましたので、ご紹介しておきます。

【下野新聞社 発刊『下野国が生んだ足利氏』】
通を唸らせる地元ならではの話題が満載でした。


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