未亡人日記22●「田園の憂鬱」


平らな土地に生まれていないし、いまも坂道だらけのところに住んでいるので、平らな土地を歩いていると、ちょっとした異空間にいるように思うことがある。

空が広い。

半袖ではもう涼しすぎるのだが、薄い秋の日差しがあるので歩くとちょうどいい。
子供に頼まれて忘れ物を届けにきた。駅からかなり歩いて行くのだが、この平らな土地は水田というよりは畑が多かったんだろうなとおもう。かつては立派な農家だったような広い敷地のうちも点在していて、その脇をまっすぐな国道が一直線に続いていて時々信号で渋滞している。歩道は本当に申し訳程度の幅で、白いガードレールに閉じ込められている。このガードレールからはみ出してぴょんぴょんのびている草の丈を見ると、子供の頃を思い出す。

昼休みになると同時に走って校舎をでてきたらしい子供に、閉まった門の外から頼まれたものを渡し、子供は右手を挙げながらきびすを返して、広い敷地の奥に走って行った。
その後ろ姿を見送ってからまた駅に戻る。

戻る道で、あまりおなかはすいていないが、昼を食べようかと思いついた。せっかくここまできたんだし。

街道ぞいのそばやに入ろうかと思ったが、そんなに食べれないかな? 駅ビルでパンとコーヒーでいいかな? と、思いまよって素通りする。少し歩くと、あまりきれいではないが、いかにも地元の個人がやっているような洋食屋が目にとまり、ついふらふらと入ってしまった。

こういう店にはいるとなかなか決められず、かつ食べ過ぎておなかがいっぱいになりすぎる。だから用心しないと。そうおもいつつ、カツカレーの写真に惹かれてじーっと睨む。しかし結局、エビフライとハンバーグの盛り合わせにした。「ご飯は少なめでお願いします」と店主に頼んだときは、そのご飯は残すつもりでいたが、結局味噌汁も、ついてきた冷や奴も、ポテトサラダも全部食べて、ランチサービスのアイスコーヒーも飲んでしまった。

店を出ると、駅はすぐだった。おなかいっぱいなのでもっと歩きたい気持ちだった。
もしも、夫が生きていたら、私たちはこんな日に一緒に忘れ物をとどけにいったかもしれない、という考えが不意に湧いてきた。夫と私は駅からずーっと、あのガードレールすれすれの歩道を縦につらなって学校の通用門まで歩いていって、そのあと、あの定食屋にはいるだろう。入って夫は何を食べるかな?

がんがわかって2年目のゴールデンウィークの真ん中の日、病院の帰り、なぜか飛鳥山の方に散歩に行って、地元のハンバーグ専門店のような店に入った。二人でテーブルについて注文を待っているときに
「おれ、ほんとうにがんなんだろうか?」
といって夫が自分の顔を両手でなでたシーンを思い出す。

あれは、「調子がよくて病気のことを忘れている」という意味だった。2年目はそうだった。抗がん剤治療をしながら、会社にもいっていて、時々胆管炎で急に発熱したり、入院したりはあったけれど、本人の後からの回想でも、2年目は比較的よい体調だった(と、もうかなり悪くなってからいっていた)。

息子がまだ今の学校にはいる前で、練習に誘われて学校に行かせてもらったとことがあり、私はこの駅まで電車に乗って息子を送ってきた。その先はバスで一人で行かせたのだったが、夫はそのときは最後から二回目の入院中で、私はバスの窓ガラスに両掌を張り付けてこっちをみている子供の写真を携帯から夫に送った。

夫は、結局息子がこの学校に入ったことは知らない。

ミーハーなところもあるので、夫の好きなミュージシャンの出身校だし、絶対喜んだろう。
公開練習にも立派な道場にも試合を見に行き、保護者会では熱心に語っただろう。
あああ、つまんないな、私は一人でそれをやっている。
夫が得ることができなかった子供を育てる喜びを、私はひとりぼっちで味わっている。
つまんないな。夫がどんなに喜び、熱心にそういうことをしたかということが想像できるので。

散歩しながらそんなことを考えたせいで、夫がかわいそうになり、久しぶりに夜泣いた。

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