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未亡人日記52●ハッピーロードへようこそ

 

 春になると動物の赤ちゃんが生まれるニュース記事がどんどん出てくるが、人間だってそう。春先になると急に赤ん坊を抱えたお母さんたちが目立つような気がする。

 胸のところの抱っこ紐から頭を半分だけ出してキョロキョロと動かしている赤ん坊や、ベビーカーの中にでんと横たわっている赤ん坊や。つい目を細めてしまう自分に、歳をとったことを自覚する。今日は老人の施設に行くので尚更そんな気がするのかもしれない。

 約束の時間にほんの少し遅れて施設の玄関にたどり着くと、二重ガラスの向こうで、杖を支えにして母が「遅いよ」というかのようにすっくと立っていた。ごめんなさい、という気持ちになりつつも、私も忙しいのだから、と言い訳するような開き直る傲慢な気持ちになる。

 とは言っても特に話すことはないのである。面会室で「ご飯どう? 美味しい?」などと聞いてみる。そのうち、「いつまで私ここにいるんだろう?」と母が言うので、私も困ってしまった。自宅はあってもついの棲家にならない今日この頃。老人になっても、病気をしたり介護が必要になったりするとノマド生活になるのである。そして、それは圧倒的におばあさん。元気で一人暮らししているのもおばあさんだし、施設に住んでいるのもおばあさんが圧倒的なのだ。母の未来は私の未来。(私には娘はいないからなあ。見舞いとかに来ないだろうな)。

 20分と決められた面会時間が過ぎたので、母はお風呂の時間になり、私は帰ることになる。施設の人に、最近の様子を聞いてみると、不安感が大きいようで、いろいろなことを確認に事務所に来ます、とのことだった。「この新聞ここに置いていいのかしら」とか。

私この後どうすればいいのかしら?

とは、聞いていないかもしれないが、私と話した延長で、聞いているかもしれない。

「私はこの後どうしたらいいのかしら」


現実的だけど、かなり哲学的な問題だ。

そんなの答えられるわけない。

回答は先送りにして、歩いて違う駅から帰ることにする。


いつまで人は生きるんだろう? という問いに等しいよね。


住宅街の中の梅が咲いている。


もう、春だ。

アーケードの下にしょぼくれた長い長い商店街の入り口があり、そこから駅まで続いている。しょぼくれた商店街が私は好きなのだ。もちろん元気のある商店街も好きだけれど。

 人間の中年以降の生き方をどこか彷彿とさせると言っては言い過ぎだけれど。最盛期もあったろう、でも今は潰れた店や寂れた店を横目に、私もこれからどうやって生きていこう、などど考え、そしてしょぼくれた商店街の中でも比較的活気がある店などで、おお、これは安い! と感激する値段の野菜やお惣菜を買って帰るのがすごく好きなんだ。幸いにも今日は買い物籠のようなバッグを持っているし。

 八百屋で、ほうれん草とサラダ菜と切り落としベーコンとスナップエンドウを買う。少し歩くと商店街を延々流れているピアノ曲が耳についてきた。ショパンのノクターン。昼なのにノクターン。商店街のPR放送のアナウンスとノクターン。私は、誰もいない実家の、しんとして弾き主の母を待っている2台のアップライトピアノのことを思った。あれ、この後どうするんだろう。私はピアノを弾けないのである。

 商店街の中に本屋がある。ここは前も来たことがある。品揃えのいい本屋だった。町の書店を見たら入って本を買う、と決めている義務感で、前も買った本のある棚までいく。車谷長吉の人生相談の文庫本と、幸田文の「男」という随筆集の文庫本を買う。ずいぶん思い切ったタイトルだが、幸田文に似合っているように思う。幸田文が七十を超えて、全国に木を見に行ってまわっていた頃の文章を読んだら、剛力におぶわれて山に登る話があった(はずだ)が、そこに何か幸田文の真髄を見る思いがしたことがあった。地味と思っていたらめくれると赤い裾よけがひらりとするような。


 さて。小さい旅のお供に自分の敬愛する作家先生に同行してもらうのは光栄なことである。お二人の本をお連れして、私は駅前のマックに入った。マックじゃない選択肢も検討したが、知らない街の商店街に入ると、チェーン店がありがたいのだ。なんとかチキンとコーヒーとポテトのセットを頼む。このなんとかチキンは、昔六本木でバイトしていたインド料理屋の味がする。毒々しいようなオレンジ色のソースがかかっているから、そのソースの味かもしれない。

 地味な私鉄の駅の地味な商店街の駅前なのでパリッとした人がいるわけでもなく、自分自身もポテトの匂いがするマックの2階の席で文庫本を読むおばさんとしてひっそり生息している、その感じをなんと表現するのか。これも絶妙な旅情なのだった。

 私の隣に、定年過ぎで時間を持て余しているといった肌触りのする男性が座った。見たことのあるデザインのCDのケースが目に入った。タイトルが黄色い、クラシックのCDシリーズだ。図書館ででも借りてきたんだろうか。今CD持ってるなんて、と目線は向けずに目の端で観察していると、おじさんは次にCDプレーヤーを取り出した。
 おお、CDプレーヤーを持ち歩いて聴いているんだな、となんだか嬉しくなる。デバイスは時代遅れかもしれないけれど、全部の演奏をサブスクリプションで利用できるわけもないのでそれは正しい。急にしょぼい商店街のマックのなかで隣の禿頭のおじさんのインテリ度が光ってきた。
 なんのCDか知りたい。でも目線を映すのは憚られる。「9」という字が日本語の中で見える。ジャケット写真はおそらくカラヤン。横顔がそう。そして9ということはベートーベンか? マーラー? 顔を動かさずに横目だけで探るが、老眼で遠近療養コンタクトをしているのでピントが合わない。悔しい、なんの交響曲か知りたいぞ。必死で目を細めて横目を使う。ちらっとアルファベットが見えた。わかった。ドボルサークだ! 「新世界」より! 心の中でガッツポーズする私。


人だって自分のハッピーを輝かせたらいいよね。
しょぼくれていても、ハッピーロード

ハッピーロードへ、ようこそ。




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