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庄屋は本当に悪いのか?

小さい頃には信じて疑わなかったことが、大人になって違う視点で見てみたら全く別の見え方がすることがある。
その1つが「庄屋は本当に悪いのか?」という話。

日本昔話などにしばしばこんな話が登場する。

あるところに小さな村があり、百姓は飢饉で途方に暮れている。
そこで庄屋のところに行き、今年の年貢は待ってほしい。
そして食べるものがないから米を少しだけ分けてほしいと懇願する。
庄屋は苦しむ百姓たちを目の前に、
「お前らに与えるものは何もない。年貢を払え」
と冷たく言い放つ。
困った百姓たちは村の神社に行き神様にお祈りをする。
すると神様が出てきて庄屋が蔵に溜め込んだ米や小判を百姓たちに分け与え、庄屋を懲らしめましたとさ。

よくあるストーリーなのだが、大人になってから思い返すと

「庄屋は何も悪くない」

という捉え方もありそうだということに気がついた。
ではもし庄屋が百姓たちに親切にしていたらどうなっていたのか?
百姓たちは飢えから逃れることができる。
じゃあ翌年も飢饉になったらどうなるか?
同じように百姓たちは庄屋から恵んでもらい助かることになる。
それが繰り返されたらどうなるか?

ここで問題となるのは、飢饉の度に百姓が庄屋に泣きついていたらいずれ庄屋がすっからかんになってしまう、ということではない。
百姓たちが「来年はこうならないように改善しよう」という気持ちにならない点だ。
もしも悪い(と言われる)庄屋がいなくなってしまったら百姓たちは「困った時は庄屋に助けて貰えばいい。」という思考になってしまい、いつまでも自立できず、ひいては文化や技術の発展が阻害される。
よって、悪い庄屋は百姓たちの改善を促すという意味では、文化の発展を助ける「いい庄屋」ということになるのではないか。

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