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沈思


自分の世界は思っているよりも、だいぶ狭い

そんなことを実感することが最近よくある。あたりまえすぎて、忘れがちなこと。

一番最近のものは、ドクダミの話だ。
私の幼稚園は、ある程度広さがあり、その園庭を当時は駆け回っていた。
虫に刺されることが多くあったが、そんなとき、友達と私は、ドクダミを使っていた。日陰に生えたドクダミの葉を摘み、虫刺されに押し付ける。あの独特な臭いが虫刺されによく効くと言われていた。
今考えると、誰が言い出したのか、効果があったのかさえ覚えていないが、これは常識だと思っていた。

先日、山菜採りをしている番組を見たときに、ドクダミが出てきた。そこでは、虫刺されに効くと説明されていた。「よく使っていたな」と母に話してみると、そんなことは聞いたことがないと言われた。よくよく聞いてみると、ドクダミといえば、化粧水かお茶だと断言された。

数年前ドクダミで化粧水をつくったことがあり、その使い方は知っていたが、虫刺されに効くことが周知の事実でなかったことに驚いた。

こんなことがあると、自分の世界は狭いし、よくわからなくなる。


そもそも、この話は私と母の間だけであるが、一番近くにいる人でさえも違うのだから、みんなが当たり前にとらえられていることというのは実はすごいことなのではないか、なんて考えてみたくなる。

このところ、ぼーっとしているときにはそんなことしか頭に浮かばない。自分と他の世界はどんな風に違うのか、一致することはあるのか、気になることはたくさん出てくる。

その違いを強く意識したのは、個別の塾講師を始めたときと、免許センターで自動車運転免許を取得するためのテストを受けたときだろう。

高校生までは、基本的には同じ年齢層の人としか関わらなかった。そのため、高校卒業後から急激に世界が開けるような感覚だった。
それまで関わってこなかった世界には、本当に様々な人がいる。それこそ、自分の常識を外れる人が多くいるのだから、何にでも衝撃を受けていた。

人の常識は、みんなの常識でない


こんなことは、あたりまえ。心ではわかっていたつもりだった。でも、実際に経験するとやはり違う。
文字としてでなく実感として、体にしみこんでくる感じ。いかに自分中心で考えていたかを痛感する。

これが面白い。いつも何かに感動したときには、「この感覚を大事にしよう」と思う。すぐ忘れてしまうけれど。


それでは。

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