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昭和が終わった日

 いつものようにカーステレオから、カセットテープのキョンキョンを聞きながら(柳家喬太郎ではない)僕は勤めているホームセンターに出勤した。
 すると、先輩のOさんが既にきていた。
「おはようございます」
「とうとう亡くなったな」
「何の話です」
 当時僕は新聞もTVもみてなかった。
「天皇が亡くなったんだよ。ラジオでもやってるだろう」
「はあ、キョンキョンを聞いてましたんで(柳家喬太郎ではない)」
 天皇がお隠れあそばした。天皇崩御。昭和が終る。
 天皇陛下が危篤だったせいで、我がドラゴンズが優勝したけれど、星野監督は胴上げをしなかった。それがとうとうお亡くなりになられた、のである。
「さては店が喪に服して休みになるんですかね」
 不謹慎な僕は真っ先にそう思い浮かんだ。
「そんな訳ないと思うけど、そういうところもあるみたいやね」
 先輩は本部から何か言ってくるまでいつも通りに開店準備をするよう言った。
 果たして店は閉めなかった。ただし国旗(当時は社旗と国旗を掲揚していた。ただし国旗は祝日のみであったが)は半旗にし、喪章(黒い布切れ)をつけることとし、店のBGM(当時JPOPを鳴らしていた)はかけずに、無音で営業することとなった。
 BGMなしは結構きついものである。疲労感が増した。人間というものにとって音楽の必要性を痛感した。
 喪に服するのは多分1週間ほどであったかと思うが、その間、TVはどのチャンネルをつけても、昭和の歴史についての番組ばかりであった。貸ビデオ屋が特需でもうかったという。
 こういう番組は結構好きなほうではあったが、延々とそればかりだと、さすがに飽きた。でももったいないので、いくつかビデオに3倍速で録画した。もっとも以降、それを再生して見ることはなく、未だ押し入れのどこかに眠っているか、捨ててしまったかのどちらかである。よしんばあっても、デッキのほうが最早ないので見ることはかなわない。2ND STREETにでもいけば、ビデオデッキは売ってるかもしれないけれど。
 喪が明けて平成の世になっても、何もかわりはしない。BGMが復活したのは嬉しかった。リズミカルに仕事に励んだ。
 ある日、半旗の国旗につけていた喪章がなくなってることに気づいた。どこへ行ったのかちょっと気になっていたら、果たしてT先輩が黒いネクタイをしていた。当時、ネクタイをするように制服はなっていた。T先輩になぜ黒いネクタイをしているのか聞いてみると
「ネクタイ忘れて、丁度いいのがあったので、借りてる」と答えた。喪章をネクタイにしていたのである。なんと罰当たりな、とあきれてしまった。
 その先輩とは、平成が終った日も同じ店で働くことになる。
 平成が終った日は特にどなたかお亡くなりになったわけではないので、特別何もなかった。僕は片道40km近くの道をカーステレオのCDでキョンキョン(小泉今日子ではない。柳家喬太郎である)の落語を聞きながら家路に向けて車を走らせた。
 

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