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じいさんがアントレプレナーだった話

 農産物の輸入の仕事をしています荒川防火水槽研究会と申します。名前は趣味のブログからそのまま使っています。

 "今思えばうちのじいさんが #アントレプレナー だったので、ちゃんと話を聞いておくべきだった"という話。明治に生まれてもうずいぶん前になくなったじいさんの職業は「はり師」でした。はり師になった理由は、家庭の事情で高等教育が受けられず、稼げる仕事だったからと聞いたことがあります。

 じいさんの手書きの「筋肉の絵」を見せてもらったことがあり、意外にはりの世界も科学的なのね、と失礼な事を感じた記憶があります。あとじいさんは何故か「手相」の本も出しています。 #島田秀平 さんか?

 ただじいさんがアントレプレナー的なのは、はり師をやりながら「和菓子屋」だったことです。

 鉄道の駅のすぐ前に店を構え、団子なんかを売っていました。電車の中で食べるというよりお土産用だったようです。今でいう #駅ナカ という感じかな。

 白い娥と書いて白娥という不思議な店名でしたが、それなりに繁盛していた模様。というのは、昔じいさんの家の隣に餡子を作る工場があったからです。私の小さい頃はまだ餡子の甘い匂いがしていたのを覚えています。

 そんな「はり師」で「和菓子屋経営者」のじいさんでしたが、さらに「美容室」も経営していました。

 じいさんには母を含め5人の娘がいて、彼女たちが手に職を持ち自活できるように、と始めたらしく、実際伯母のうち2人か3人は美容師だったと思います。昭和30年代なので発想が先取りしている。ただ私が子供の頃はもう常連さんしか来ない店で、美容院はじいさんの家に行った時の我々子供の遊び場でした。

 そんなじいさんですが、いかにも商売人という雰囲気は全然なく、記憶の中では"静かな人"というイメージしかありません。彼が始めた商売はじいさんがなくなってから全部たたんでしまい、じいさんの商売の記憶もだんだんと薄れて来ています。

 今私は起業で成功した人の本なんかを一生懸命読んだりしていますが、こんなアントレプレナーが身近にいたことを最近ようやく実感します。人知れず今は教会の墓地にいるじいさんの話を、せめて母からもう少し聞いておくようにします。

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