僕と麻雀 番外編2本場

「京都遠征」

遠い記憶なんで時系列が曖昧になっている。が、この京都遠征は1浪の頃だったはずだ。

当時の予備校は、多数の浪人生で賑わっていた。僕は国公立文系。そして僕を何故だか師匠と崇めてくれるI川は国公立理系。それ以外にも私立文系と私立理系があった。現在と比べるとシンプルな分け方だった。あとは成績順にクラス分けとなる。

まずはI川の話をしよう。彼は中学時代に通っていた塾の同級生だった。高校時代彼に会ったのは、彼が通っていたK野高校の文化祭に高1の時に誘ってもらい訪れた1回だけ。僕は高校時代は勉強なんかするもんか!と思っていたから、予備校に通うこともなかった。同じ高校に進学した以外の中学時代の同級生とは音信不通であった。まあ何も困らないので気にも留めていなかった。

1浪して予備校に入学すると、他の高校に進学した中学時代の塾の同級生に出会った。久しぶりに会うと懐かしさは募った。旧交を温めるうちに、I川とMかやは一緒に麻雀を打つようになった。しばらくするとI川は僕のことを「師匠」と呼んだ。照れくさい部分はあるものの、冗談っぽいものをとやかく言うのも角が立つので放っておいた。色々なメンツと打つときにI川は一緒に卓を囲んだ。

そんなI川は、僕より交友関係が広かった。そしてN川高校の3人衆を連れてきた。

彼らは、当時攻略法があった「ルーキー」というフィーバー台を打ってお金を稼いでいた。この台は、3桁のデジタルが、2,3種類の係数を順次足して行き「777」が揃う機種だった。つまり逆算すると1シャンテン、2シャンテン、3シャンテンの台がわかる。また目が違っていても、台枠に付いていたストップボタンを押してその目に近づけていく。10回転やそこらであっと言う間に当たる。打ち出の小づちみたいな台であった。しかも、当時は攻略法も一部しか知らないので競争率も低く、店もこの台を放置であった。

そんな3人衆は、京都でパチンコを打っていた。I川が段取りを組み、京都の繁華街の近くにある2階の雀荘で、昼過ぎから麻雀をやることとなった。向こうは3人で交代しながら、こっちは僕とI川で対戦に臨んだ。

3人衆の名前や風貌はかなり失念した。仮にリーダーをA、少し太めをB、細くて小柄なのをCとしておこう。

指定された雀荘に現れたリーダーAは、黒いスーツに白いシャツに黒い革靴。シャツの下に黒のタートルを着て茶色いサングラスをかけていた。当時はDCブランドブーム。コム・デ・ギャルソンだったかどうかは分からないがそういう服装だった。羽振りの良さを感じた。そして刈り上げた髪型は円広志にどこか似ていた。BとCは清潔感はあったがキメていなかったので、Aの印象がとにかく強かった。


そして麻雀が始まった。

Aは牌捌きも巧みで、空中で小手返しをサラッとする。逆回しも。打牌も速い!僕も牌捌きは綺麗なほうだったが、彼が1枚上手だった。

麻雀は、Aは金の圧力もあってかかなり踏み込んでくる。こちらも負けじと前に出る。満貫、ハネ満が飛び交う派手な戦いとなった。

夜になり、終電もあるのでお開きとなった。僕もAも勝った。どちらのチームが勝っていたかまでは記憶にないが、なかなか痺れる闘いだった。彼らの懐は潤沢なことはわかった。焦らずにじっくりと搾り取ろうと思いながらI川と阪急電車に乗った。


結局、N川3人衆との麻雀はその1回こっきりだった。

その戦いから1年後、I川から驚くべき話を聞いた。

Aはパチンコで稼いだ金で車を買った。深夜に高速道路を飛ばしていた。右側車線を走るAの車は、道路を清掃する大きな清掃車に猛スピードで突っ込んだ。そのまま帰らぬ人となった。太く短い人生を地で行き、一気に駆け抜けたんだろう。

僕はここ35年で何度も京都で麻雀を打った。ずっと京都での麻雀は頗る調子が悪い。ここで命の灯を燃やすのは危険だということなんだろうか。

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