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語られた言葉が語らなかったこと

最近亡くなられたある方が書かれた言葉について考えていて、あらためて、はっとすることがあった。病を患われたことについてはソーシャルメディアなどでも述べられていたが、その口調は前向きで力をもっていて、そしてときには無邪気なおふざけもあり、状況の深刻さは捉えられていなかった。しかしもちろん、身近な方々は実際の状況をご存じだったはず。その点は1人の読者としての認識不足をどうぞお許しください。

僕には7年前、同級生のくせに先に旅立ってしまったコピーライターの友人がいる。今思うと、友人の病気の状況は少しその方と似ていたような気がする。彼が亡くなったとき、その方はSNSで「直接の面識はないけれど」と前置きしたうえで、お悔やみを述べられていた。まず思い出したのは、そのときの言葉だ。

あるいは、日々の感謝を定期的に発せられるようになったこと、ブログなどの文章に命に関わる言葉がときおり顔見せるようになったこと——もちろんそれは、その文章に自然に、そしてしっかり根を下ろしているのだけれど。

また後進の指導にも情熱的な方だったが、近年はその次のステップを見据えて取り組みまれているように感じたことがあった。そのときは純粋にアップデートへの志向からだと思っていたのだけど、それだけではなかったのかもしれない。

もしかしたら、どれも驚きとショックに導かれた感傷的な洞察なのかもしれない。だとしても、その言葉ひとつひとつは命に向けられた誠実な響きを持っていた。後からふと浮かんでくるのは、そのためだと思う。言葉は地面の下に根っこをもっていて、その深さや太さが人の心に語りかけてくるのだろう。自分も、その根を育てていかなくては。心から、ご冥福をお祈り申し上げます。

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