幻想は口をひろげて ブッツァーティ「コロンブレ」④

幻想の範疇

 前回、コロンブレがようやく渡した《海の真珠》が、ステファノの死とともに、小さな丸い石に変わってしまった。
 所有者であるステファノが白骨化したので、真珠もまた輝きを失ったのか。《海の真珠》だと思ったものは、ステファノの幻想だったのか。
 後者ならば、どこからが幻想だったのか。死に際に海に出て、コロンブレと出会ったことが、幻想だったのか。あるいは、十二歳の頃からコロンブレに追いかけられて生きてきたとこと自体が幻想だったのか(だとすると、父も幻想を共視していたことになる)。
 いや、幻想だったのか? 陸ならまだしも、海原において、小さな丸い石を手に入れることなどあるのだろうか?
 ここでは、メタ的に、筆者ブツッァーティの技法を見てみたい。

幻想が理不尽にからめとられる

 本短編集は、ブツッァーティの「幻想と不安」を集めた作品集だ。「理不尽と生活の空費」とも換言できる
 各編が「幻想小説」にカテゴライズされるが、幻想が幻想を呼ぶという仕組みではなく、むしろある超常現象が起こり、そこから市井の人々の生活がかき乱されるという内容だ。
 たとえば、「七階」では、理不尽なほど超合理的なシステムを持つ病棟が一つの幻想であるのだが、その幻想の館に入院させられた主人公は、病気のせいではなく、むしろ健全な理知を保つがゆえに苦しむことになる。
 あるいは、表題作「神を見た犬」では、隠修士の犬はたしかに超常的で神秘的な存在なのだが、その犬に見られていると感じているせいで、犬を嫌悪しながら、犬を介抱して善行をつもうとする村の人々の打算はまさに世俗に住む者のあさましくも真摯な態度だ。そこには筆者の風刺があり、ユーモアがある。それ自体が美しいイメージを持つブツッァーティの幻想は、コントのありえない設定としての役割も果たしている

 「コロンブレ」において、幻想は、まさしくコロンブレという怪魚自体だ。
 しかし、「七階」や「神を見た犬」では、幻想に閉じ込められた人々が大切な時間を空費していくのだが、「コロンブレ」においては幻想に閉じ込められたステファノだけでなく、幻想の正体である「コロンブレ」もまた理不尽にも時間を空費していく。

幻想は大きな口を開けて待っている

 前々回触れたように、この「コロンブレ」においては伝聞という形式をとって、コロンブレとステファノの幻想から、語り手は距離を置いている。
 一方で、「コロンブレ」の特異性は、幻想自体が幻想の中に食われてしまうところにある。語り手が距離を置いたのは、その吸引力の高い幻想に呑み込まれないようにするためなのだろうか。

それがどのような性質なものなのか、ステファノにはわからなかったが、言葉では形容できない何かに強烈に惹きつけられるのだった。

 「それ」とは、コロンブレであり、幻想でもあるのだ。幻想は、生活の淵でいつも大きな口を開けて、獲物を呑み込むのを待っている。