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むずがゆいコトバたち

みなさんには聞くとむずがゆい!という言葉がありますか?

私は「CP」「いまいま」「ナレッジ」「お願い致します/させて頂きます」という言葉を聞くと、なんだかむずがゆさを感じます。なぜなのか?
その謎を解明すべく我々はamazonの奥地へと向かった…。

CPと書いて何が伝わるのか

私は食べログで「CP」という言葉をみるとむずがゆくなってしまいます。
「CP」はなぜむずがゆいのか?

言葉の意味と成り立ちから考えてみます。
「CP」とはコスパ、コストパフォーマンスのこと。つまり費用対効果。
費用対効果とは、かけた費用に対する効果のほどを表す経済専門用語。

食べログで「CPが良い」というときには、「値段の割りに量が多い」を指すことが多く見受けられます。それは「得」と書けば伝わる話なのでは?
「得」を「CP」と書いていると思うと私はむずがゆい。

言葉の変遷を比較すると、

・経済専門用語:費用対効果(cost performance) → コスパ
・食べログ用語:得(good deal) → CPが良い

あぁ…むずがゆくなってきました。

「ホテルのゴミ箱あさってろ、最高にCPがいいぞ」とか思っているわけではなく、「CP」という言葉を使っている書き込みに対して、なぜかむずがゆさを私は感じてしまうのです。

食べログは基本的に外食なので、量で得したいなら自炊した方がCPが良い。CPの良さでいうなら「値段の割りに美味」という感想が読みたい。

店の良さを人に伝えようという気持ちよりも、「CP」という用語を使って、評論家ぶりたい、玄人ぶりたいという気持ちが強そうなのが、むずがゆい。

意味と成り立ちも、使い方にも、言葉を使っている人間にしても、とにかくちぐはぐでむずがゆい。

いまいまという言い訳がいまいましい

私は言い訳で「いまいま」と聞くとむずがゆくなってしまいます。
「いま」を「いまいま」にして何が変わるのか?

ものすごくケチなことを言うと、文字数が増えるため言う時間と聞く時間が増えるので損させられた気分になります。そもそも私は言い訳を聞かされる時点で何か奪われた気持ちになってしまうのです。「いまどうなってる?」と聞いて、「終わってるけど言ってなかった」「あと1時間くらいかかる」なら情報が増えるのですが、「いまやってる」という情報の有益さはゼロ。

「先程まではわかりませんでしたが、いまちょうど情報が入りました」を「いまいまわかりました」なら情報の新鮮さが伝わります。ですが言い訳で「いまいまやってます」「いまいまはわかりません」はムダ。

ではなぜムダなことをするのか?
責められたくないから言い訳がましくなるのだと思います。
遅れたときの報告は「いつになるか」で良し。

人を待たせているのに、こちらの気持ちを汲み取ってくれるでもなく、逆に保身、責めるなという気持ち、言い訳がましさをぶつけてくる。
このいまいましさがむずがゆい。

そこにナレッジがあるだけ

私は「ナレッジ」という言葉を強調されるとむずがゆくなってしまいます。
「ナレッジ」はなぜむずがゆいのか?

「同意」を「アグリー」、「思いつき」を「ジャストアイデア」とわざわざカタカナに言い換え日本人に伝わりにくくして、カッコイイと勘違いして、英会話はできないことを告白しているようで、共感性羞恥がヤバイからではなく、原因は別にあるのではないかと思います。

私はカタカナ語や専門用語全般にはずかしさを覚えるわけではありません。その方が早く伝わるという理由で使われることには納得します。
ニュアンスを伝えるのに効果的なことが多いと思います。「ニュアンス」も「ニュアンス」と伝える方が、日本語で説明するより大抵早く伝わります。
何よりも伝えるためには、すでに浸透してしまった言葉や、言い換える言葉がないものは、そのまま使う方が効率がよいと考えます。
ではなぜ「ナレッジ」がはずかしいのか?

「knowledge」という単語を私は「ノーリッジ」と習って、覚えましたが、これが「ノーリッジ」ではなく「ナレッジ」になっていることになにやら「ジャガーではない、ジャグワーだ」に似たはずかしさを感じます。
「jaguar」は「dʒˈægwɑɚ(米国英語)/ ˈdʒæˌgwɑ:r(英国英語)」です。英会話ができない人がカタカナで正しい発音にこだわるのはいたたまれません。

とはいえ「ナレッジ」は単なる「知識」という単語ではなく専門用語なので本質はそこではないでしょう。得た知識を整理して、他の人が有効活用するのは企業にとって大事なこと。ただ「ニュアンス」と違って「知識」という単語は既にあるけど…、でも「ナレッジ」の方がニュアンスが伝わるはず…。

でも、仕事で「知識」っていったらわざわざ説明せんでも、体系的に可視化すべき知識、有益で活用されるべき知識に決まっとろうが!とツッコミたくなる!!逆に役に立たない知識をガベッジとか言っとけ!!とか思っているわけではなく、「ナレッジ」と私が聞いた思い出に原因があるのでは?

これはビジネス用語というか「意識高い系」の言葉に感じるむずがゆさ全てに言えそうですが、用語で「ドヤられた」経験や、「ドヤられそう」という思い込みから、むずがゆくなっているのかもしれません。
名付けて「ドヤ起源説」。

「ナレッジがある」そうです。このセリフがむずがゆいのです。そりゃ知識経験は存在するでしょう。重要なのは知識が体系的に可視化されているか、有益な知識が活用されているかどうか。ナレッジマネジメントに力を入れているからナレッジが社内共有されていてどの社員でも対応できます!とか、具体的にどんな利点があるかを伝えているならむずがゆくない。

言葉に罪はない。はずかしさもない。
どの言葉も必要になって発明されたものなのではずかしくない。
はずかしい使い方を目の当たりにしてしまったとき、はじめてはずかしさを感じる。そして、その後もその言葉を見る度に思い出して、いつしかその人からその言葉を聞いただけで、毎度はずかしいと感じてしまうようになる。
「ナレッジ」はそこにあるだけなのに、「ナレッジ」の周りにあの人の幻覚を見て勝手にはずかしくなっているのです。なんだかおそろしいですね。

頂いたとおりに致します

私は「お願い致します」や「させて頂きます」など文章を校正されるとむずがゆくなってしまいます。なぜか?誤用だからでしょうか?違います。

言葉の意味は移り変わるものです。
”確信犯で中抜きされても全然大丈夫なふいんき”です。伝われば良いと思います。しかし、文章を校正した上で誤用というのが、なんとも指摘し難い。

「ナレッジ」の「ドヤ」は放っておいても自分に直接被害はないのですが、校正されたものをそっと直して使うのはなんだか後ろめたい。

後ろめたい思いをしたくないなら毎度言うしかない。しかし、それは嫌だ。じゃあしょうがない。というわけでむずがゆいのです。言わないと選択した自分をむずがゆいと感じてしまう。

結局むずがゆいのは自分のせい

いまいまの結論としては「自分の感じ方が原因」というナレッジです。
他人に「その言い方を改めるようお願い致します」というのはCPが悪いので気になってもその場では我慢させて頂きます。

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