「ありがとう」と一言では終わらせたくなかった思いと期待
大好きだった居場所「キッチンINO」が閉店した。
ドアを開けると正面には古い赤いポストが置かれ、バンダナを巻いたイノさんが迎えてくれる。あの雰囲気は昔から何ら変わっていないように思うけれど必然的に年月は流れていた。
思い返せばもう何十年も前まで遡る。
まだ祖父母も健在だった頃。
記憶は「ふらいぱん」という喫茶店から始まる。
イノさんが開いていたお店だ。喫茶店というより店舗のスペースからするとレストランだったかもしれない。
家族で度々訪れた。
祖父母はそれ以上に足を運んでいたようだ。当時は珍しくもない拡大家族。祖父母も同居がほぼ当たり前のような時代。早くに結婚し父親の実家でともに生活を始めた母親は想像しただけでもだいぶ苦労しただろう。ただおそらく私たち子どもにとっては良い環境だったに違いない。きっとそんな環境も母親への感謝と尊敬の思いを膨らませる。
話を戻そう。
そんな家族みんなで通った「ふらいぱん」。
何が魅力だったのか。
当時の私はハンバーグが大好きだった、のだと思う。チーズのかかったイタリア風ハンバーグ。家では決して出てこない特別な食事。それが楽しみだった。当時はそんな思いでしかなかったはずである。
いつからだったか記憶はないが、いつしか「ふらいぱん」は別の方が運営していた。二人いた姉も中学、高校と、どんどん社会も広がり家族みんなが揃うことがそうそう当たり前のことではなくなった。しだいに足は遠のき、気づけばファミレスも盛んになった。
私自身も現代ではほぼ定番のように歩みを進め、社会人になった。
時は流れ―
「ふらいぱん」の時より大分こぢんまりとした店舗で「キッチンINO」は開かれていた。それがいつ頃からだったのか、これまた記憶にはない。ただ気づけばそこにキッチンINOはあった。
食事メニューは昔から変わらない。とりわけメニューが豊富なわけでもない。数多くあるファミリーレストランの中で価格が安いわけでもない。大通りに面してはいたが、とりわけ目立つわけでもなかった。
こぢんまりとした店構えながらキッチンINOからは温かな光がこぼれていた。
近年いつになく足を運ぶ回数が増えた。
それはもちろん食事をするためでもあったが、イノさんに会いたかったから、話をしたかったから、そして話を聞きたかったから。
そんな思いにさせたのはなんだったのだろう。
イノさんの旅話も私自身がじっくり聞いたのは最近のようにも思う。一歩を踏み出したその先にあるもの。人生の豊かさ。イノさんの魅力そのものだった。
ちょっとおこがましいかもしれないが、いつしか自分のやりたいことと「キッチンINO」が近いものを感じるようになった。その「やりたいこと」を形にするまでにはまだ少し時間がかかりそうだが、自分の中では今までにない覚悟がある。
イノさんと「これから」について色々お話しした。
「こんなことをやりたいんだ」と言うと、「いいじゃん、いいじゃん」と言ってくれる。その「いいじゃん」には応援歌のような温かさと強さと勇気がこもっていて、背中を押してくれた。
イノさんのことだから、またいつか旅に出るのだろう。ここが常にあるわけではないのは、わかっているつもりでいた。
2022年、七十歳を期にお店を閉める。
そんな話を聞いて現実味を帯びてきた。
それでもまだこの場所を私も求めていた。
次に引き継いでくれる人が見つかったという。
その人の準備が出来たらここを引き渡すという。
それはもう一年先の話ではないことは知っていた。
―2022年11月1日 閉店
なんだか心さみしい。
ハンバーグが食べられなくなる?
いや、それだけじゃない。
今こうして記憶を遡って思う。
「キッチンINO」でなくてはならないもの。
ここにはそれがあふれていた。
おじいちゃん、おばあちゃん、
いよいよこんな時が来たんだよ。
ようやく自分がイノさんと向き合って話ができるようになってきたと思った矢先。
思いっきり
さみしい、さみしい、さみしい。
これまでキッチンINOに足を運んでいた人、それぞれの人生が、きっとこの場所で行き通った。みんな、どんな旅を歩んでいるのだろう。
そしてまたイノさんが一足踏み出した。
さみしがっていても仕方がない。
そう、私も踏み出すんだ。
次に会った時には是非おもしろい話をしよう。
思いっきり頑張れたらきっと笑い合える。
「いいじゃん、いいじゃん」
私はその言葉に応えたい。
わずかながらも自分にできるその力を信じて。
イノさん、またね!
感謝の気持ちと、これからのお互いへの期待を込めて―
追伸
祖母が「ふらいぱん」からの帰り道をうたった詩がおぼろげに思い出され、手元においてあった詩集を読み返してみましたが見つかりませんでした。ただ、今言葉は見つからずとも祖父母が帰るその光景が浮かんできます。不思議なものです。
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