SFCらしさってなに?

縁あって後輩の紹介でSFCの2年生とお話をする機会がありました。
彼曰く「いまのSFCにはSFCらしさがないんです!」
   「SFCができたころってどうだったんですか?」
問われた僕は答えに困った。
だって当時の僕は「SFCらしく」というよりも、できたばかりのキャンパスを「慶應らしくしたい」と考えて活動をしていたから。笑。

さらに彼は僕に訴えてきた「SFCで活動することをやめて、SFCの外側で活動する学生が多いんです。だからSFCを楽しくしたいんです。」こう訴えてきた彼の言葉に僕の心は動かされた。

そして仮に彼のいう「SFCらしさ」というモノが、僕がSFCにいたころに生み出したイベントが多少なりとも関係しているのであれば、生み出した僕の行動や思考に「SFCらしさ」というものがあるのかもしれない。であれば、僕自身がメタ認知して言語化するよりも、彼と僕との言葉の交歓、そして協働することで、彼自身が「SFCらしさ」を体現し、それによって「SFCらしさ」ということが言葉になるのかもしれないと考えた。でも「SFCらしさ」を言葉化することに、僕自身はあまり価値を感じてはいない。

近々、彼とSFCで会うことにした。会う場所は鴨池のほとり。ここには僕が生まれる前から、この土地に生きている森がある。彼とメッセンジャーで情報を交換するうちに、この土地のうえに立ちたいと強く思うようになった。この土地のうえで感じ考えたコトを彼と語り合う。それ自体はいつもと変わらない行動であり、そして何かを企てるときの初動であるから。

実は、SFCや慶應に関する活動に関わることはせず、いまの課題に注力しようと意識した矢先の出会いだった。そう思う意識はあまり変わらないと思う。だから少しは今のSFCの外側の人として関われるかなと。無理かな。

今は人として何をするべきか、そう問いながら彼と語らう日を楽しみに日々を送っている。


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