我が家のハイゼンベルク
父親が入院してからもうすぐで二週間が経つ。母から伝え聞く父親の容態は思わしくない、というか思ったよりも「末期的」で私は未だに戸惑っている。
母も勿論戸惑っているだろうし、何より父が戸惑っているだろう。
あまりにも死が突然目の前に訪れたことに父は今何を思っているのか。
それを想像するのはあまりに苦しく、私はしたいとは思わないし、できない。
生まれたらなら必ず死はやってくる。死は平等だと言うが、そこに向かう道はあまりに人それぞれだ。若くして死ぬことだってあるし、自死を選ぶことだってあるし、ゆっくりと弱って死ぬこともあれば、突然死ぬことだってある。
父はゆっくりと弱って死ぬ道だった。
4年前に癌がわかってから、5年生存率10%という数字に怯えながら、時には家族に当たり散らしながら、それでも生きていた父について、私は今何を思えばいいかわからない。
父に対しては複雑な感情がある。いつからか向き合うのが難しくなった人間でありながら、遺伝子的にも趣味の部分でも核になるものを作ったのは父であった。
一言で言ってしまうならば愛憎であるが、その愛も憎しみも日によってそれぞれだ。
かつて私が書いた演劇作品は父への愛憎が底にあるようなものだった。
父を憎みながらも最後は関係が精算され、新しい一歩を歩めるような。
それは関係性が難しくなった中でもこうなればいいと思って書いたものだった。
そんな希望は叶わず、父との関係は難しくなっていった。
父が難しい人間になったのは、父が管理職に就いた頃からだった。
職場の不満を家庭に持ち込むような人間になってから、家はわかりやすくギスギスしていった。私はそのギスギスを目一杯思春期に浴びたのだった。
思春期を抜けてからも、父の誇大妄想的な自己評価と他者への威圧は酷くなる一方だった。
そんな父の姿が本当に嫌いだった。
でも趣味の話、主には音楽や映画やドラマの話をしているときは、その嫌な父が隠れることがあり、その話をしている父は好きだった。
特に癌がわかってから、父にぴったりなドラマがあると『ブレイキング・バッド』を勧めると父は食い入るようにそのドラマを見た。
そして感想を私に話した。
その姿はかつての好きだった父のようで嬉しかった。
突然、身体が動かなくなり、救急車で病院に運ばれ、ベッドの上で脳腫瘍があると分かったときに父は「お前に金は残してある。ハイゼンベルクや」と言った。
ハイゼンベルクは『ブレイキング・バッド』の主人公、ウォルター・ホワイトが麻薬王として仮の姿を名乗る時の名前だった。
それをベッドの上で父は言ったのだった。
私はこらえきれずに泣いてしまった。
我が家のハイゼンベルクは癌がわかってからの四年間生きようとした。
そしてその最中に見た、私が勧めたドラマを、自分の血肉にしていた。
この4年間、つもりに積もった憎しみも、たったその一言で私は許してしまうようなそんな勝手な気持ちになってしまった。甘いのかもしれないけども、父なのだ。憎もうと、結局は親であって、父であって、私はその父の子供だからそんなことで許してしまうのだ。
今やってる治療を止めてしまうと、もう数ヶ月くらいしか保たないそうだ。
私はその事実を受け止めることで精一杯だ。
未だにどう向き合えばいいかわからない。
多分、この数ヶ月は過酷なものになるだろうとも思う。
私は父が死んでしまうというのを受け止めて、ちゃんと向き合わなきゃいけないのだ。 そうじゃなきゃ、多分、一生後悔してしまうだろう。
『コントが始まる』というドラマの中で、死にゆく親に対して「もう少し時間をくれよ。あんたを許す時間をくれよ」と叫ぶシーンがあったけども、私はそのシーンを何度も思い出している。
32年の愛憎を精算するにはまだ時間が足りない。
もう少し時間が欲しい。そうじゃなきゃ、私は、我が家のハイゼンベルクと向き合うことができない。
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