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路上で営まれ、育まれる園芸

高校時代まで福岡で過ごし、北海道で大学生活を送った。
上京して下町の路地を歩いた時、軒先に所狭しと並ぶ植木鉢に圧倒された。

生まれ育った福岡や、学生時代を過ごした北海道では、ここまで路地をめいっぱい使って園芸活動する光景は見かけた記憶がなかったのだ。
植木鉢は、設置場所を選ばないポータブルな庭とも言える。とりわけスペースに限りがある都市部では、様々な事情で「庭」が路上にはみ出す。

建物の軒先や路地にとどまらず、時には道の向こうまではみ出し、たくましく営まれる都会の園芸活動。個人の私的な活動でありながら、それが町の緑の景観にすらなっている。すごい。
一度気になりだすと、どの街でもつい目がいってしまい、見かけると写真に撮ったりするようになった。

行為としての園芸活動とともに、路上に生きる植物そのものにも目を奪われた。
もともと植木鉢に植えられていたのが、環境が合っていたり丈夫だと、植木鉢を勢いよくはみ出してもじゃもじゃと成長する。
植木鉢という決められた枠をひょいっと乗り越える植物に、なかなか枠から踏み出せない自分からすると、ある種の羨ましさを感じた、というと大げさだろうか。

前者が「路上で営まれる園芸」だとしたら、後者は「路上が育む園芸」。やや強引な解釈で、両者とも「路上園芸」と捉えている。

植物のいまある姿は、周辺の環境に対する最適解とも言える。スペースに限りのある街中では、生活空間を緑で彩ろうとする人の都合と、最適解を見つけようとする植物のせめぎ合いがとりわけ顕著だ。人の都合をするりとすり抜ける植物のありようは、どこかすがすがしい。時間を経て生み出された佇まいは、ガーデニング雑誌に載るような煌びやかな姿ではないかもしれないが、なんとも言えないおかしみと美しさを感じる。


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