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街中の野生

半年ほど前から、ひょんなきっかけで猫と暮らしはじめた。
これまで動物を世話した経験がほぼ皆無。植物も見るのは好きだけど、いざ育てようとするとことごとく枯らしてきた。
こんなズボラな自分に果たして猫など受け入れられるのだろうかと不安だったが、いざ一緒に暮らし始めると、「飼う」「世話する」というよりは、同じ空間でそれぞれ自由に生活している感じなので、ちょっと拍子抜けした。

猫の行動を目で追っていると、当たり前だけど、自分の都合で置いた家具や雑貨は全く意味をなさない。机の上に重なった書類はなんかデコボコした障害物だらけの地面だし、ズボンの紐は揺れて気になるおもちゃ。ちょっとした隙間や、登ったことない高い場所を見つけると、未知なる場所を発見した探検隊のように突撃していく。猫を見ていると、家という空間のパーツパーツが、機能や意味ではなく、「段差」「隙間」「暖かさ」「涼しさ」といった別の尺度で再構成されていくのが面白い。

街中の植物を見ていても、街の空間が別の尺度で再構成されていくように思う。

最近、樹木医の方に植生遷移の話を聞く機会があった。植生遷移とはざっくり言うと、火山の噴火などで生物がまったくいない裸地の状態から森が形成されるまでのプロセス。
植物にとって、アスファルトや人工物に覆われた街は、ガチガチの岩場のような環境とのことだ。

もと土だったところがアスファルトで固められる。やがてわずかなスキマに種が流れ着き、環境が合っていると雑草が顔を出す。

アスファルトのスキマから顔を出す雑草は、パイオニア植物と呼ばれる、遷移のはじめに侵入して定着する植物が多い。
何年もほったらかしにされた空き地には、セイタカアワダチソウやススキが生えている。遷移が進んだ場所で見られる多年生の植物だ。
草だけでなく樹木に覆われてしまった廃墟は、さらに遷移が進んだ状態にも見える。

一見人工物に囲まれた街でも、植物目線で見てみると、自然の摂理に則って、局所的にさまざまな段階で植生遷移が進んでいる。
道路のスキマとか、空き地、廃墟など、何かの事情で人の管理の及ばなくなった場所では、ふとした瞬間に野生が垣間見える。

日常生活では、街中の風景を無意識に機能や目的といった目線で見ているが、ふと別の生き物を意識すると、同じ空間でも、別のルールや時間軸で回る世界があるのだな、と当たり前ながら実感する。
特に勝手に生えた植物を見ていると、別の時間軸で街の風景が再構成されるように思え、興味深い。

一年ほど前に今の家に引っ越したが、一年前には砂利に覆われ何もなかった場所に、ずいぶんといろんな種類の植物が顔を出していることに気づいた。
ここでも植生遷移の兆しが見える。
ズボラをいいことに、このまま植生遷移が進むのを見守りたい気もするが、なかなかそうはいかない。


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