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内臓が好きすぎて卒論を書いた話

大学入学から大学卒業までを簡単に振り返りつつ、卒論「〈内臓嗜好症〉にみる倒錯的偏愛と倒錯する自己」について少しだけ覚書をするための記事です。
基本的には先に論文に軽く目を通していただいた方が読みやすいと思います。
タイトルの通り、内臓が好きすぎるので内臓の話がたくさん出てきます。苦手な方、体調の悪い方、心臓の弱い方は閲覧をご遠慮いただきますようお願いいたします

 どなたでも無料でお読みいただけます。

自己紹介

 こんにちは、2023年3月で東京大学文学部を卒業しました釦水月(ぼたん・くらげ)こと田中美月と申します。内臓が好きで、作家活動をしています。現在まで、「咲魁 -sakigake- 」という文芸同人の主宰を務めて詩を書いたり(「田中pancréas釦」名義)、ある作品(大好きな泉鏡花の短編や百人一首など)から受けたインスピレーションを内臓や体内世界として表現する「臓詰トルソー(ぞうづめ・とるそー)」(旧名義:トルソーアート)の制作をしたり、趣味としてネットラジオ番組の制作をしたりしてきました。

略歴
2000.10 10月25日生まれ
2018.7 田中pancréas釦として文芸同人誌『咲魁』を発行
2019.9 田中pancréas釦として文芸同人誌『咲魁 Ⅱ』を発行
2019.11 田中pancréas釦として作品集『fílθ綺譚 ─ 殉情デュピュイトラン/二◯世紀の小劇場』を発行
2020.8 「第2回 あそびば展」に《「きれいなのでなくつては」─ 泉鏡花『紫陽花』》を出展
2021.3 「第3回 あそびば展」高円寺会場に《白晝に花園の夢見る如き ─ 泉鏡花『艶書』》を出展
     「第3回 あそびば展」代官山会場に《青葉がくれに花を摘む ─ 泉鏡花『艶書』》を出展
2021.4 東京大学 文学部人文学科 美学芸術学専修課程 進学
2021.5 「プレ百人一作展」に《ロマンティック/水彩》を出展
2021.9 「第4回 あそびば展」オンライン展示に《ロマンティック/水彩》を出展
2021.12 「百人一作展」文京区会場に《ロマンティック/水彩》を出展
2022.3 「百人一作展」京都会場に《ロマンティック/水彩》を出展
2022.8 グループ展「抵抗」に《その声、その呼吸、その姿 ── 泉鏡花『外科室』》を出展
2023.1   駒場小空間にて演劇「死後の恋」を上演
2023.3   東京大学 文学部人文学科 美学芸術学専修課程 卒業

釦水月 │ 個展なび
今まで制作した五人分の臓詰トルソー


大学入学〜「釦水月」になるまで

 わたしは学校推薦型選抜(通称:推薦入試)を使って大学に入学しました。推薦入試を決めた経緯や実際の面接でお話ししたこと、提出した資料などについては、ぎんなん女子部さんの動画や「キミの東大」記事でもお話しさせていただいているので、もしご興味のある方がいらっしゃいましたらそちらをご覧ください。

 推薦入試で入学した学生は「推薦生」と呼ばれていて、推薦生同士のタテヨコのつながりもしっかりあるため、推薦生は多かれ少なかれ「推薦生としてのアイデンティティ」みたいなものを持っているように思います。
 わたしも、交流する推薦生の面々が一人残らずすごい人たちなので、特に最初の一年は「頑張らなきゃ、何かをしなきゃ」と無駄に意気込んで生き急いでいました。(現在は中止していますが、)「ルリユール・アラート(relieur à l'art)」という「本と芸術に関するプロジェクト」を進めていたり、文芸同人「咲魁」の同人誌の二冊目を発行したりして、学部進学後も本と芸術に関する研究をしようかなと考えていたのですが、双極性障害(Ⅱ型)が悪化したことや、コロナ禍の到来もあり、大学二年目からは全く違う感じになります。

 高校の同級生——あとに出てくる個人の作品集の装幀を手がけてくれた友人です——からのお誘いで、2020年春ごろに学生のグループ展示「あそびば展」に参加することになっていたのですが、感染症の流行により延期。実際には同年8月に開催することができたのですが、個人的にはじぶんと制作(文芸以外の形での)について、じっくり考える期間をいただいたなと思います。
 2019年11月に田中pancréas釦として作品集『fílθ綺譚 ─ 殉情デュピュイトラン/二◯世紀の小劇場』を発行し、それで文芸活動にいちど区切りをつけたのですが、そこで言語という透明な障壁から離れて、じぶんの中の世界にじかに触れられるようになったのが大きかったように思います。鬱のときも、詩を書こうとするとすぐに苦しくなってしまって、でもじぶんの偏愛はいつもわたしの心を守ってくれていました。その偏愛のねもとが「内臓」なのですが、ずっと内臓は好きだったのですけど(詩のなかにもよく内臓が出てきていました)、「内臓が好きだな」ということとある程度の距離をもって向き合ったのはこのときが初めてだったのではないでしょうか…….

「〔…〕そもそもわたしが内臓好きだなって思ったのは、きっかけもよくわからないんですけど〔…〕、ちっちゃい頃からお肉が、生肉が好きで、お母さんがスーパーとかで買ってくる鶏肉のパックとかあるじゃないですか。あれのラップがお肉の表面にピタっと張り付いているところを、しかも冷たいから、それをぷにぷにするのがすごい好きで、なんか単純にピンクだし冷たいし触感ぷにぷにだし食べたら美味しいし、あとは唐揚げ作るときにポリ袋にお肉入れて材料揉むみたいな、アレとかもやりたくて仕方なくて、生肉に触りたくて、でお母さんに『触らして』とか言ったんですけど、やっぱり子どもが生肉触って手を口とかに入れちゃったら危ないからっていうのが多分あったと思うんですけどあんまり触らしてくれなくて、でもなんか、ちょっとだけだよとかって手洗ってねとか言ってやったりしてたんですけど、それが一番最初かなあとは思いつつ、ただなんかその、肉から内臓っていうものにはっきり興味が移ったのは、内臓っていうものをはっきり認識してからなので、あの、いくつぐらいかなあ、小学生の、まだ3年生くらいなんですけど、PS3に『AFRIKA』っていうゲームがあって、動物とか自然系の写真家としていろんな風景を撮って、それを雑誌とかに投稿してお金を稼ぐってゲームで、アフリカの動物とか自然を観察してると、なんかイベントシーンみたいなので、なんか『あ! 今チーターがシマウマを追っかけてるぞ! 捕食シーンをスクープしろ!』みたいなミッションが入ったりするんですよ。でそのときに、こう、生きて、全然走ってる動物が、なんかこう、がぶってやられると、体の中ピンクだし赤いしツヤツヤだし、今までわたしがぷにぷにやってたものってああ入ってるんだ! ってことをそのときにはっきり実感して、で、そっからそのお腹の中みたいなのに興味持ち始めて、〔…〕。」

田中美月(2023)「〈内臓嗜好症〉にみる倒錯的偏愛と倒錯する自己」, 付録①, 2頁.

「内臓は、なんか、もっとちゃんと、テレビとか見るようになってさ、お肉が詰まってるわけじゃないじゃん、人間の身体ってさ、全部脂肪みたいな感じじゃないじゃん。なんか知らないけど、心臓とか、肝臓とか、器官があって、形をしたものがお腹の中に詰まってる。人体模型みたいな。で、こんなパズルみたいになってる、こんなつやつやぷにぷにの、不思議な形をしたものが、こんなきゅんきゅんに詰まってるなんて!みたいな。『これが一部の人間じゃなくて全員に詰まってるの!? すご!』って思った。それも、知ったときにはもう好きだったのよね。」

田中美月(2023)「〈内臓嗜好症〉にみる倒錯的偏愛と倒錯する自己」, 付録⑥, 64頁.


シーン3 アクト1


何にする、
メニューを開くあなたの口から

    喉
        食道
              胃、
めくるめく消化管の世界を垣間見る
                 (scopophiliaに慰められた唾液が滴垂る)
あなたのその、
シフォンのブラウスの下
牧場の朝靄のようなミルク色をした
すめらかな細胞たちを
あなたはいま、
その指先で選び取ろうとしている


わたしは口を開いて
           (水音、)
あなたの入り口を塞いだ

ぱちくり

ようこそ、いらっしゃいませ

田中pancréas釦『fílθ綺譚 ─ 殉情デュピュイトラン/二◯世紀の小劇場』, 2019年.


 そして、釦水月としてはもっと直接的にじぶんの内臓嗜好に触れられるものを作ろうと思い立ち、一番最初に作ったものが泉鏡花『紫陽花』に題材をとった《「きれいなのでなくつては」─ 泉鏡花『紫陽花』》です。作品についての解説というか、付随するおしゃべりが「トークライブ」としてアーカイヴに残っているので、こちらもご興味ある方はぜひご覧ください。

「第2回 あそびば展」に《「きれいなのでなくつては」─ 泉鏡花『紫陽花』》を出展

 作品作りは本当に楽しくて、このあたりから第3回あそびば展くらいまでは本当に楽しかったなという思い出しかなく、実際に「楽しい!」って話しかしてないのですが、実際内臓が好きということ(内臓嗜好)では、その楽しさは自己否定や生きにくさと両義でした。

 

「あそびば展」でのアーティストトークアーカイヴ。上から第2回、第3回高円寺会場、第3回代官山会場です。


卒論の構想を決める

 わたしの所属している専修では、大学4年生のあたまから卒論に関する演習の授業が始まるので、卒論のテーマの構想は大学3年生の後半くらいから本腰入れて考え始めたのですが、この段階ではじぶんの内臓嗜好をテーマにしようとはあまり考えていませんでした。ただ、腐っても推薦生であるというアイデンティティのために、当たり障りがない、他の一般入学の学生と見比べたときに(良し悪しでなく)「なんか違うかな?」感がないといけないだろうという当然の個人的前提があったので、どこかしらにひねりを入れようとはしていました。
 なんだかんだ2月くらいまでは、当初のテーマに据えていた「本と芸術」から派生して、泉鏡花の作品世界のフェティシズム(具体的には「花」に着目したもの)について書こうとしていたのですが、やっぱりひねりが足りない、このままじゃ「あの田中とかいうやつ、わざわざ推薦入試で入れなくてもよかったな。というか推薦入試で学生をとっても結果4年大学生活送らせたら一般入試の学生と変わんないな。推薦入試制度っている? いらなくない?」(※個人の懸念です)と思われるんじゃないかと怖くなったので、方向転換をケツイ。そのときちょうどフェティシズムについて調べている流れでフロイトやラカンの精神分析理論に触れて、「なんでなんでもかんでも別に子供作りたいわけでもない愛をぜんぶ性愛にするんだろう……」と思って怒りと疲れがどっときてしまったこともあり、じぶんの愛と性愛の違いについて、そもそもじぶんの愛はなんなのか、「恋」なのか「愛」なのか「嗜好」なのか「偏愛」なのか「恋愛」なのか、じっくり考えてみたときに、じぶんの内臓嗜好がはらんでいる苦しさに触れないわけにはいかないな、ということになったのです。

 「わたしはなんていうか、それが好きだなあって思って、それのこと考えたりとか、それについて知ったりしているときが楽しいのであって、別に内臓じゃないと、もう、自分の性的な欲望が満たせないとか、むしろそれを満たすために内臓を好きでいるわけじゃないんですよ。〔…〕いや、好きなだけなんだけどなあ、みたいな。好きの最上位があくまで内臓ってだけで、それと性的なことがしたいわけでは全くないんですよ。〔…〕『内臓っていうのは実は女性性の象徴で、あなたが女性好き、男性好きってならずに内臓好きっていうのは、実はあなたも心の中にいる、男性の欲望のアレがこれに向いてて〜』みたいな話をされたとして、〔…〕『あ、そうなんだ〜!〔…〕やった〜解決!』とはならない。っていうのが、すごくしんどい。それを全部性的な話に置換すればもう全部納得するでしょ? って思われてるのも嫌、っていう感じですね。」

田中美月(2023)「〈内臓嗜好症〉にみる倒錯的偏愛と倒錯する自己」, 付録①, 4頁.

 もちろん卒業したいので、推薦生としてのひねり云々は置いておくにしても、論文としてきちんと形を保っているものを書かなければなりません。ただじぶんの経験や感想をつらつら書き連ねたとして、それは日記やブログに投稿すればよいのであって、どうしてわざわざ論文という形にするのか? ということも考えましたが、あくまで個人の見解としては、わたしが専攻する美学という学問は、そもそもひとの感性という存在がよくわからないもの、ものすごく定義しにくいものを学問の中心に据えていて、その存在をとりあえず肯定するところからはじまるという点で、じぶん自身のやりたいこと、やりたいしかたとよく共鳴するという確信があったので、とりあえずやってみることでなにかわかるんじゃないか、そしてそこでそうやってわかったことは、わたしひとりの自己満足にはおさまらないものなのではないかと考えていました。そして、そういう個人の中にある生きにくさみたいなものは、どれだけ社会がいいように変わろうと、あなたが笑って受け入れてくれようと、わたしがわたしとして生きていく以上解消されることは難しいもので、そもそもそんな生きにくさがあると公に認めることは理解者や支援者と呼ばれるひとたちをむやみに傷つけることになるかもしれないし、だからこそ学問の俎上で語ることは難しくて、それでも避け続けている限りわたしはわたしのあとに生まれてくるひとたちに申し訳が立たないなあと思ったのです。
 それはそれとして方法論を考えるのは難しかったし、たくさん詰められましたし、今から思えば若干甘かったなと思うところがなくはないのですが、わたしは言語というものを純粋にすごいシステムだなと思っていて、だって言語的に表現できるということは、じぶんの中でそのものの輪郭が掴めているということで、指し示すことができるということで、それはすごいなと思うのです。あとはわたしはずっとラジオ番組を作っていて、パーソナリティとしてしゃべる経験も一般人としては異常なほどしていたので、なにかしようと思ったときにとりあえず話すという方法に辿り着くのは自然なことだったように思います。
 じぶん自身の語った内臓嗜好に関する「証言」——語っていくうちに内臓嗜好というよりは〈内臓嗜好症〉だなということになったのですが——を一次資料として分析、議論する、という方法を卒論の軸に定めたとき、周りには強気なことを言っていましたが、内心は卒業できなかったらどうしようという思いでどきどきでした。心臓に悪いことをしたなと反省しています。
 余談ですが、指導教官には「とても難しいと思います」とは言われましたが、一度も反対されることはありませんでした。本当にありがたかったです。

 このあとの読みやすさに関わるので、先に実際の論文のAbstractを紹介しておきます。

 本稿で議論の対象とするのは、人間の「倒錯(perversion)」という特殊な状態である。倒錯の状態に関しては、精神分析学的知見からさまざまな理論が提唱されてきた。精神分析学は患者の無意識にその原因を求めてきたが、倒錯の当事者がどのような点で苦しんでいるのかという感性的な側面には意図的に無関心が貫かれてきた。しかしながら、倒錯という状態は基本的に慢性的なものであり、何度も繰り返される経験として自己のアイデンティティとも結びつきやすい特性をもつ。このような状態の倒錯は、倒錯者の人格と切っても切り離せない自己の一部となっているため、治療−回復という第三者が想定するような目的とはなじみにくいという問題がある。そのため、当事者は倒錯を抱えながら、ある種の自己実現を諦めつつ病理の外側で人生を送る必要性に迫られる。
 このような背景を踏まえ、本稿は、倒錯という特殊な状態に関して、従来の精神分析学的理論では排除されてきた性的な事象にほとんど関与しない症例を取り上げ、当事者の意識とそれを表出させた証言を検討することにより、倒錯に含まれる問題系を今一度新たな枠組み:〈倒錯〉としてより広く捉え直すことを出発点とする。その上で、〈倒錯〉をアイデンティティとする人がどのように生き、何に苦しんでいるのかを紐解くことで、〈倒錯〉を抱える当事者が、治療−回復というストーリーとは別の次元で可能な限り晴れやかな生を送るための手がかりを掴むことを目的とする。本稿では、稿者の抱える〈倒錯〉を〈内臓嗜好症〉と名付け、その証言から分析を行った。そこに、〈倒錯〉の本質的な苦しみの要因として「楽−苦の倒錯」と「客−主の倒錯」という二つのレヴェルの倒錯を見出した。

https://www.academia.edu/97953282/_内臓嗜好症_にみる倒錯的偏愛と倒錯する自己


証言

 証言の聞き手は、お話しする内容に生死に触れることや性に関することを含むことが予想されるため、志願制としました。結果的には6人の方に協力していただき、12万字以上に及ぶ証言録を得ることができました。
 おひとりおひとりとお話ししながら、じぶんの根幹がぐらぐらになったり、もう無理だと思ったり、生きてきてよかったと思ったり、本当に大変な思いをしました。本当はもっと多くの方に聞いてもらうべきだったと思いますし、実際に副査の先生からも言われましたが、正直6人でよかったなと思います。あれ以上の人数とお話ししていたら、卒論を書き上げる以前に力尽きていたと思うので…… 聞いていただいた方もとても大変だったと思います。皆さんとても優しくしていただいて、本当にありがとうございました。
 そして、口頭試問のときに副査に言われて気づいたのですが、証言内ではほとんど「どうして内臓が好きなのか」、「内臓のどんなところが好きなのか」という話はしていなくて、当たり前のように内臓が好きな話をしているんですね。それはたぶん、じぶんの生きていく上で理由とかをひとに伝える必要があんまりなくて、それについて言語化しようとか好きなところを外に出そうとすると、ふつうの発話ではなくて詩や演劇や立体作品にしてしまって、要は照れるからなんだと思います。惚気みたいなものなんです。結婚の挨拶に伺った義両親の前、かしこまった場で、出会ったきっかけは聞かれれば話すと思いますが、わざわざ「こんなところがすき♡」って言わないのとおんなじ感じです、たぶん。ときめきながら、きゅんとするかわいくておしゃまなことばで語りたいですから。

卒論を書く

 いざ卒論を書く段になって、まず最初にやったことは証言の書き起こしでした。単純な量の多さから笑えないくらいの時間がかかり、朝から晩までキーボードをタイプしながら、軽いノイローゼになり、腱鞘炎になり、そういう肉体的な疲労だけでなく、書き起こして読んでみるとじぶんでも意味がわからない怪文書が出来上がっていくのが精神にものすごくキました。
 10月くらいまで書き起こしの作業をしていたのですが、その頃息抜きとしてネカフェに篭って漫画を読むのにハマっていて、野田サトル先生の『ゴールデンカムイ』を読んでいたとき、登場人物の尾形の特に後半の言動がなかなか理解できず苦しんだことがありました。ただ、そのあとじぶんの証言の中にほとんど同じ論理構造の、側から見たら怪文書じみた主張が登場したときは本当にゾッとしました。

生というシステムそのものへの懐疑を田中は「罪悪感」と説明しているが、この後に「生まれた瞬間から死ななきゃいけないのに生きてるんだと思うとわたしは結構それがしんど」いと語っていることから、キリスト教的な原罪とは異なるものの、特定の罪の意識ではなく、漠然とした抵抗感のようなものであるとうかがえる。これを乗り越えて生きていくための納得材料となるのが内臓という存在であり、内臓嗜好は田中にとって「今まで生きてきたこと」と「今生きていること」と「これからも生きていくこと」それぞれの根拠となる自己の存在理由にさえなっているのである。したがって、内臓嗜好は生きるということそのものを肯定する価値基準であり、死に対する強い恐怖心を受け入れて生きていくためになくてはならないものである。それゆえに、内臓嗜好はアイデンティティと容易に結びつき、これからも生きていく以上簡単にはなくせない信念となっているのである。

田中美月(2023)「〈内臓嗜好症〉にみる倒錯的偏愛と倒錯する自己」, 34頁.

 結局じぶんがよくわからないものは書けないので、実際に書くまでに解剖学実習に参加したりもしました。わたしは推薦入試の準備についても「今までの人生で一番自分自身と向き合った時間だった」というようなことを言っていた記憶があるのですが、卒論執筆期はその7000倍くらいじぶんと向き合ったと思います。


 そんなかんじでじぶんからしても怪文書な証言から、倒錯的偏愛をアイデンティティとする個人に起こる倒錯についてを可能な限りわかりやすく抽出するために、図を利用することにしました。
 わたしは高校時代に生物学の研究をする部活に入っていて、学会発表のためのポスターやスライドを作っていたので、PowerPointで図を作るのには全く抵抗がなかったのです。
 それでは、6枚の図をひとつずつ見ていきましょう。

Fig.1 〈内臓嗜好症〉の基本状態

Fig.1 〈内臓嗜好症〉の基本状態

 主体(わたし)と客体(内臓)の間に何が起きているのかを表した図です。この図があとの5枚の図の基本形になっています。
 まず【主体】ですが、頭の方に入っているのは脳みそです。性愛的なものというより、あくまでも理性的な理解に基づく愛として認識されているので、頭に入れています。身体の方に入っている割れたハートは、アイデンティティに関する懐疑や不安、それが原因の自己否定・自傷行為を表しています。初期案では絆創膏のマークだったのですが、ひとに見てもらったときに伝わらないと言われたので変えました。
 【客体】は内臓ですが、内臓そのものも概念としての内臓もなんでも含む、どちらかというと概念として想起されるもの(イデアに近いかもしれません)なので、わざと体内ではなくまるの中に入れています。アイコンは肺・心臓・胃ですが、PowerPointのデフォルトにあったものでアイコンとしての伝わりやすさを加味して選びました。解剖学上の分類では、内臓は消化器系・呼吸器系・泌尿器系・生殖器系・内分泌系の器官を指すもので、心臓は血管系、脳は神経系に分類されるので、厳密には内臓ではないという雑学もありますが、そういう問題ではないのです。わたしにとっては。
 間の【矢印】は、細いものと太いものがありますが、これはそのままストレス・負担感の多さを反映させています。


Fig.2 〈内臓嗜好症〉における楽−苦の倒錯状態

Fig.2 〈内臓嗜好症〉における楽−苦の倒錯状態

 これは先ほどの基本図から、太い矢印ふたつのうちのひとつ【懐疑、不安】を取り出したものです。一応イタリックにしたのですがちょっとわかりにくかったかもしれないです。このあとの図でも、前の図から変化したところは文字をイタリックにして示しています。


Fig.3 〈内臓嗜好症〉における客−主の倒錯状態

Fig.3 〈内臓嗜好症〉における客−主の倒錯状態

 これはFig.2と違って、Fig.1の図から【嗜好のアイデンティティ化】を取り出し、さらに【主体】と【客体】が結びつき、【客体】としての【嗜好対象】が消失していることを示した図です。これも図だけで見るとわかりにくいのですが、順番としては
①主体と客体が結びつく
②嗜好がアイデンティティ化する
③客体としての嗜好対象が消失する
④本来主体から客体に伸びるはずだった矢印(嗜好)が行き先を失い、じぶんの感性という嗜好そのものに返ってきてしまう(=嗜好の自己目的化)
です。
 内臓嗜好がアイデンティティになってしまうことと、嗜好する対象を失ったことで嗜好の対象が自身の感性そのものになってしまうことは、実際同じ現象のような気もするのですが、証言の中では少し質の違うものとして捉えているようだったので分けて表しています。
 あとすごく細かいのですが、消失した方の内臓のアイコンも輪郭が点線になっているところがこだわりポイントです。


Fig.4 〈内臓嗜好症〉における均衡状態

Fig.4 〈内臓嗜好症〉における均衡状態

 この図はFig.1と似ていますが、Fig.1の基本状態が「現状」とするとFig.4は「ひとまずの問題が解消された状態」を示しています。倒錯を示す太い矢印が消え、【主体】の身体の方にあった割れたハートも無くなっています。


Fig.5 〈内臓嗜好症〉において倒錯が生じるプロセス

Fig.5 〈内臓嗜好症〉において倒錯が生じるプロセス

 この図が作れたときに、わたしはこの論文のアンサーが出たなとほっとしました。本当に大変だった。今までの図をすべて一枚にまとめてプロセスを再現した図です。実はこの図は左右でふたつに分かれていて、先に右半分を作りました。

Fig.5の右半分

 例によって順番を解説しますと、
右半分
①主体が客体(内臓)に対して偏愛的嗜好を抱く
②客体から美的な経験を得る
※①②は便宜上この順序にしていますが、実際には卵が先か鶏が先かと同じです
③客体から得た美的な経験を自己の実存の根拠として解釈する
④③の結果嗜好がアイデンティティ化し(客−主の倒錯)、嗜好対象が消失する
⑤④の結果客体から得られていたはずの美的な経験が得られなくなり(点線矢印)、自己否定・自傷行為が始まる(楽−苦の倒錯)
左半分
⑥客体と主体が結びついた状態を解消するために、「確認作業」によって客体を切り離そうとする
⑦⑥の結果再び客体(内臓)が対象化され、嗜好に対して美的経験を得るという均衡状態が生じる(=①②)
⑧③へ
となります。
 わかりやすくするために、同じアイコンは何度も出さないようにしようと思ったのですが、結果内臓が入ったまるは5回登場していますね。それでも最大限わかりやすく示してもコレ、というのが視覚的にわかりやすくて、図としての役割は完璧に果たしてくれたと思います。


Fig.6 創作行為を通じた〈内臓嗜好症〉の新たな均衡状態の創出

Fig.6 創作行為を通じた〈内臓嗜好症〉の新たな均衡状態の創出

 この図は、Fig.5の左半分からループするのを食い止めるための新たな均衡状態について示したものです。Fig.4の均衡状態は「ひとまずの問題が解消された状態」でしたが、こちらは「なるべく長い間問題が解消され続けている状態」になっています。この図の左半分は客体に箱がついただけでFig.4と同じですが、右側に【他者】という新たな存在が登場しているのが特徴です。
 今までの図における【客体】はあくまでも概念でしたが、この図においては現実世界にあるもの、地に足ついたものというイメージから立方体の底に影をつけています。この図を最後に作ったのですが、だいぶこなれてきて安心しながら作った記憶があります。

 以上で6枚の図の紹介は終わりです。聞き手も務めてくださった方に「かわいい」と褒めていただけたのがすごくうれしかったですし、個人的にはかなり満足のいく出来です。もちろん本文には甘いところもありますし、反省点もありますが、聞き手を務めてくださった方々に恥じないものにはできたと思っています。
 お読みくださった方は本当にありがとうございました。



おまけ 卒業制作的演劇「死後の恋」の上演

 2023年1月22日、24日の二回、結果的に卒業制作的な役割になった演劇「死後の恋」を上演しました。SNSで大々的に宣伝をしたわけではなく、なにせお招きできる人の数がかなり限られたものだったので、内々にご招待を送らせていただいての上演となりました。
 こちらの映像は残っておらず、今後再演することもないのですが、卒論で議論した内容をさらに突き詰めた、かなり究極的なことばを使っているため、扱ったテキストのうちわたしが執筆したものをアーカイヴとして掲載させていただきます。

自身の〈内臓嗜好症〉との蜜月を過ごした大学生活の修了を記念して、夢野久作『死後の恋』を題材とした演劇を上演いたします。
はらわたの底よりご祝福のお気持ちを賜りました上、ご来場いただけますと幸いです。
皆様の前でこのお話をするのは、今回が最初なのですからネ……そうして恐らく最後と思いますから……。

招待メールの案内文

好き。

好き、

すき。

好きって口にする、からだを、すきって口にできる状態にする、じゃないですか。

そのときって、唇も、舌も、肺も、脳も、横隔膜も、肝臓も、心臓も、すきって、「好き」って言うための、すきっていう状態になっていて、それで、やっぱりそれで、(好きだなあ)って、思うわけですけど、あの、好きって言っても、たぶん苦しいじゃないですか、せつなくて、好きって言っても、好きなのってわたしだけじゃないですか、恋って自分だから、すきって言うのも、苦しいんですけど、でもなんで好きって言うかって、もしかしたら言わされてるのかなって、恋に。

道ならぬ恋、不健全な恋、報われぬ恋、言い方はいろいろありますけど、恋なんて、ほんとは恋をした瞬間から報われていると思うんです。じゃなきゃおかしいでしょ。

恋なんて、恋した人にしかわからないんです。本当に恋しているのか、本当に恋だったのか、誰も恋が何かなんて知らないのに、それが恋だって信じることに意味なんてあるわけないんです。

でも、証明することが、恋の証明が、何かしらの意味を持ちうるのだとしたら、それって、祝福されて生まれてきたってことだと思うんです。

もしかしたらの話ですけど。

ぜんぶ、あったかもしれない話です。

恋の話で、わたしの、恋の話なんですけど。

恋の話で、恋の話ではあるんですけど、恋の話っていうよりも、たぶんもう恋でいいから、恋でいいから諦めさせてくれないかなって、もう諦めちゃいたいなって、諦められないってことを、諦めたいなって、疲れちゃって、だってこれからもわたし生きていかなきゃいけないから、死にたくないので、嫌ですから、死ぬのは、本当に怖くて、だって生きたら死ぬしかないのに、でもわたしが祝福されてるとかされてないとか、恋があるとかないとか、そうであってもなくても生きていかないとだめなので、生まれちゃったから、もう恋でいいんです。恋だけで十分苦しんだから。



わたし美月って名前で、今22歳なんですけど、小さい頃はあんまり自分の名前が好きじゃなかった。いや、結構最近まで好きじゃなかったかも。なんかおこがましいじゃないですか、美しい月って。

まあそれはいいんですけど、わたし、今から思い返すと、初めてちゃんと、個として、好きになったのが、豚の肺だったんですよ。右だったかな。肺って、左右で違うんですよ。右が三分割、左が二分割で。基本わたしが触れるのって、まだ半分凍っているようなものだから、自然解凍されかけの、ピンクが結構強くて、ぼてっと重たくて、でもちょっとびらびらしてるんです。なんか、巨人の世界の薔薇の花びらってこんな感じかなって。朝露に濡れたみたいな、まあ冬に薔薇って咲かないかもしれないんですけど、中学2年生くらいだったかな。それ以前から好きだったんです、内臓、でも内臓を内臓としてちゃんと経験することってあんまりなかったから、漠然とした内臓経験しかなくて。そういうわけで、初めて好きになった内臓は、豚の右肺でした。次に好きになったのはヌーの肝臓で、その次が鹿の心臓で、最近はもう特定の対象を作るのやめようかなって思ってるんですけど、それでもずっと好きな、原点みたいなのがあって。

わたしが好きなのって内臓で、内臓が好きって言葉にしてるのには理由があって、詰まってる状態が好きなんです。お腹の中に。秩序正しくぎゅうぎゅうに詰められてて、外から見てもちゃんと腹圧がある感じがたまらなく好きなんです。だから、わたしの原点は赤ちゃんのお腹。こう言葉にするとちょっと面白いですよね、胎内回帰願望とか、あるじゃないですか。あれって母親のお腹の中に帰りたいわけですけど、わたしはどちらかというと赤ちゃんのお腹の中に入りたい。多分すごくあったかくて、熱いくらいだと思うんですけど、それで、どっどっどっどって心臓が早くて、多分ミルクの、生まれたてのいい匂いがするんだろうなあって思うんです、赤ちゃんのお腹。抱きしめて、かぷって口に含んで、外側からぎゅーって押してみたいんです、ほんとは。もっと言えば、お腹を一回開いて、中に詰められてるものぜんぶ取り出してから、もう一回ぜんぶ詰めなおしてみたい。女の子だとなおよし。女の子の方が、内臓お腹の中にぜんぶ詰まってるから。だからわたしも女に生まれてよかったなって思うんですけど、でも、わたしはわたしの内臓のこと、あんまり好きじゃない。ちょっと汚いんです。壊れてるし。それはわたしの恋にはどうでもいいんですけどね。関係ないことなので。

お腹の中って、基本的には大切なものしか入らないじゃないですか。愛する人と繋がったり、赤ちゃんがいたり、食べるものだって、腐ったものとか、痛んだものとか、嫌いなものとかは入れないでしょ、好きなものだけ入れたい。お腹にね、こう、手を当てて、お腹のふくらみを感じると、わたしも祝福されて生まれてきたんだって感じがするんですよね。生まれた瞬間から、大切なものぎゅうぎゅうに詰められて生きていけるのって、多分これが祝福ってことだと思うんです。そりゃ、壊れてたり、ちょっと詰め方が甘かったり、詰められ損ねたものがあったりするかもしれないけど、それでも空っぽじゃないでしょ。祝福する気はあったんだと思うんです。だから別に、いいんですけど。

でもね、もしわたしが今みんなの前で、ここで、頭を打って、わたしが内臓が好きってことを忘れちゃったとするじゃないですか。内臓を好きじゃなくなっちゃった、内臓のこと別に、なんとも思わなく、嫌いになっちゃったとすると、いやそれならまだ許す、でも、だから、そういうふうに、わたしがしてるわたしの恋が、内臓への恋が、もし、もしもの話ですけど、もし、仮に、万一、存在しなかったとするじゃないですか。もしもですよ。わたしがずっと、22年間ずっと、内臓が好きって信じてただけで、内臓のことなんか全然好きじゃなくて、ただの惰性で、恋なんてなくて、もっと最悪なのは、わたしが好きなのが内臓じゃなくて、内臓を好きだと信じてる自分自身だとしたら、そしたら、わたしは空っぽになっちゃうじゃないですか。恋がなければ、愛もない、愛された証拠が、祝福された証拠が、ない。なくてはならない、生きてはいけないのに、だって生きていかれないじゃないですか。生きていくのだって本当は嫌なのに、死にたくない、死にたくないのに、生きていかなきゃいけない、そんなの無理だから、だからあるんです、恋は。わたしは内臓が好きなんです。内臓が好きだから、生きてきたし、生きているし、今こうやってしゃべってるし、これからも生きていくことができるんです、内臓が好きだから。祝福されてるから。

そういうことをね、ずっと考えてるんです。ずっと、もうずっと、何してる時も、寝てる時も、起きてる時も、食べてる時も、話してる時も、ずっと考えてるんです。わたしって本当に内臓が好きなのかな、この恋って本当にあるのかな、わたしが本当は内臓が好きじゃなかったとしたらどうしよう、って。不安になって、不安になるだけならまだ許す、でも、それって、今までの、内臓が好きで生きてきたわたしはどうすればいいんだろうって考えたら、苦しいんです。苦しくて、だから話すしかなくて、わたしが本当に内臓が好きなのかどうか確認してるんです。好きって、好きって口にする、からだを、すきって口にできる状態にする、じゃないですか。そのときって、唇も、舌も、肺も、脳も、横隔膜も、肝臓も、心臓も、すきって、「好き」って言うための、すきっていう状態になっていて、それで、やっぱりそれで、(好きだなあ)って、思うわけですけど、あの、好きって言っても、たぶん苦しいじゃないですか、せつなくて、好きって言っても、好きなのってわたしだけじゃないですか、恋って自分だから、すきって言うのも、苦しいんですけど、でもなんで好きって言うかって、もしかしたら言わされてるのかなって、恋に。

道ならぬ恋、不健全な恋、報われぬ恋、言い方はいろいろありますけど、恋なんて、ほんとは恋をした瞬間から報われていると思うんです。じゃなきゃおかしいでしょ。

恋なんて、恋した人にしかわからないんです。本当に恋しているのか、本当に恋だったのか、誰も恋が何かなんて知らないのに、それが恋だって信じることに意味なんてあるわけないんです。

でも、証明することが、恋の証明が、何かしらの意味を持ちうるのだとしたら、それって、祝福されて生まれてきたってことだと思うんです。

もしかしたらの話ですけど。

ぜんぶ、あったかもしれない話です。

演劇「死後の恋」第一部の上演テキスト

 夢野久作の『死後の恋』に寄せて書いているので、「偏愛」を「恋」と言い換えていますが、嘘や脚色は一切ありません。ぜひ卒論と併せてお読みいただけますと幸いです。


編集履歴

2023.03.31  初版


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