仏教のアレさんの『Why I Am Not a Buddhist』読書会2回目、科学的とか宗教的とかってどういう事態なのか
先週に続いてEvan Thompson ”Why I am not a Buddhist" の読書会であった。
当直明けで眠くて、また雑事をこなしつつであったので飛び飛びしか聞けなかったが楽しかった。さきほど録画を見終わったので感想でも。
なおこの会の趣旨についてはニー仏さんの記事のほうが的確と思われるので参照されたし。
というわけで本日は1章の途中からであるが、ユヴァル・ノア・ハラリ氏も実践しているゴエンカ・リトリートのゴエンカ師の批判から始まる。あとゾクチェン・ポンロプ・リンポチェ(こういうふうに読むんだね)の批判も。
例えばゴエンカ師は、ブッダは仏教なんて教えていない、ブッダの教えに戻れとはいってないと説くわけであるが、それを言い出すとブッダは在家に瞑想でより良く生きようとも言ってないと著者のトンプソンはダブスタ批判するわけである。
ゾクチェン・ポンロプは「ブッダを自分自身よりも信じることはなく、彼の教えから学ぶのだ」と言うが、歴史上の仏教徒はブッダを超越的な存在として信頼をおいてきた。それに対して、近代科学の発展とともに神仏(超越的規範)よりも個人の内面を重んじるようになってきた。「神は死んだ」というわけである。こうした背景のもと、仏教は科学的であるとする仏教モダニズムとか仏教例外主義と呼ばれるものがアメリカを中心に浸透してきた。ゴエンカ師のようなアジアの仏教者たちはそれに応える形で(悪く言えば迎合して)、布教してきたといえよう。
しかし仏教に限らず、他の宗教だって科学的に、近代的に変革していこうという動きだってあるし、仏教にしたって実践にあたっては規範的概念のもとでやるほかなかったりするわけで、仏教が例外なんてことはないよね、、、という帰結になってしまう。
有料放送なので内容についてはこれくらいにしておく。興味を持った方はぜひ課金しましょう。
“Why I am not a Buddhist”を読んでいて驚いたのはダライ・ラマのことも平然と批判していることである。あんなぐう聖を批判するなんてことは俄には信じがたく、自分の英語の理解が間違っているのではないかとちょっと自信がなくなったが、今日の放送で間違いではないとわかって安心した。間違いはダライ・ラマは無謬と決めつけてしまっていたことだ。
本書では科学とか科学的という単語が頻繁に登場するのだが、なかなか定義の難しい言葉である。科学というのは私たち自身の、私たちを取り巻く世界についての切り取り方の一つである。そこには様々なバイアスが入り込む余地がある。
科学的なことは政治的であるし、政治にだって科学的な要素がたくさん混入している。昨年はそういうことを強く意識させられた。さしあたって、私は科学であるとか科学的であるとは、事象をより広範により再現性高く説明できることと解釈している。反証可能性については問わない。
普遍性と再現性はしばしばトレードオフであるし、どちらを重く見るかはイデオロギーに大きく依存する。総論としては、私はケインズが言ったように、緻密に間違えるよりは大雑把に正しいほうがよいと考えるものである。
それにしても土曜日がこんなふうに始まるのは素敵なことだ。「仏教は科学的なのか、例外的なのか」というような、傍から見ればだからなんやねんといってよいような事柄を面白そうに話しているお坊さん二人を、数十人が面白がって見ているのである。これからの時代の共同体のあり方を予感させる会であるといっても過言ではない。いや、過言かも。
来週は第2章だ。1章まるまる使って、ロバート・ライト『なぜ今、仏教なのか』を批判している。楽しみである。
ちなみにトンプソンとライトが2時間くらいえんえんやりあっている動画があるとのことだったが、これのことかな。
小難しいこといいそうな人たちですね。。。
あと、スピリチュアルだが宗教的ではないものをSBNR( Spiritual But Not Religious)というらしく、ASMRみたいだなあと思ってたらわりと真面目に議論されていることのようだった。
こうやって知識が増えていくのは楽しいなあと感じる土曜日である。
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