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みんなのニーメラー

昨日、文科省が大学入試の感染症対策ガイドラインの一部が報道されて高学歴ホワイトカラーの皆さんが劇おこだった。私も呆れてしまった。

Omicron variant感染者と濃厚接触したものには一律に受験を認めないという厳しいもので、そらまあ怒るよねって感じだ。

しかし観測気球にしてもどうしてこんな酷い記事が出てくるのか?長らく指摘され続けている霞ヶ関の人材払底のせいなのか?あるいは高止まりする政権支持率故なのか?

岸田内閣は厳しすぎる感染対策で批判を浴びているが、それは私の観測範囲内だけのことで、支持率は好調である。岸田さんは菅総理が各方面に配慮しつつ奮闘したがゆえに、最終的に総辞職となった。

どうやったって怒られるなら、支持率を最大化することに全振りするのが最適だ。一国の宰相としてどうかとも思うが、民主主義とはそういうものなので仕方ない。

しょうがないことなんだけど、新たな変異株が登場するたびに厳格すぎる対応をして、負担が若い世代に押し付けられるのはもはや耐え難いんだよね。。。と1年半以上前から感じてるのだけど。

未知のものには慎重に対応すべきという理屈にももううんざりである。慎重に対応するのだってタダではないのだ。コスト、機会損失、副作用を伴う。ただそれらは見えにくいから無いことになってるだけだ。

昨日、劇オコしていた高学歴ホワイトカラーの皆さんも、外食や観光産業が塗炭の苦しみを味わっているときに見て見ぬをふりをしてはいなかったか。学園祭や修学旅行が中止になるのを黙認してはいなかったか。

ニーメラーの警句どおりになっただけとも言える。自分に関係なのないことでも、理不尽には声を上げるべきだったのだ。いったん譲歩するととことん押し込まれる。

一歩も引かないと決めた者たちの一部は、陰謀論でもなんでも援用して戦線を押し返そうとするだろう。私はもうそういう人たちのことを笑うことができない。私が陰謀論と無縁でいられるのは、彼らが戦ってくれるからである。

自由と公衆衛生のせめぎ合いについては、拙訳書でも書かれている。

第4章では、1900年代初頭、強制的不妊手術が真面目に議論されていたが、それに反対した数少ない人々が反ワクチン主義者であったのは示唆的である。本書は(そして私も)、反ワクチン主義者には批判的であるが、自由とは何かを考える上で見過ごしてはならないように思われる。

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