【連作短編ホラー】呪いの言葉がトリガー 第三章『産まなければ良かった』4
水曜日2
玄関からダイニングキッチンへと向かって細い廊下をゆっくり男が歩いていく。
私には目も暮れず、廊下とダイニングキッチンの境で唖然と立ち尽くすカイトへと男はにじり寄っていく。
私の目と鼻の先を男が通りすぎる。魚の生臭さとすえたオイルの臭いが私の鼻腔に流れ込む。
やがてその匂いは部屋中に充満した。
朝の柔らかい太陽の光が差し込みあんなに明るかった部屋が突然薄暗くなった。窓の外の空も灰色に変わっていた。
「こちらがカイト君ですね。やっぱり良い油が取れそうですね」
「やめて! カイトに何する気なの? 近寄らないで!」
震えは足から全身に行き渡った。気がおかしくなりそうだ。いやもうおかしくなっているのかもしれない。それでも必死に自分を奮いたたせるように人生で一番の大声を出した。
「何をするかですか? カイト君を絞って絞って絞り上げて、全身を捻り潰すと体から油が零れ滴るんですね。その油を使って河原で魚を焼いて食べるんですよ。人間の子供からは上質な油が取れるんですねぇ」
そう言うと男は生理的嫌悪感にまみれた、薄気味の悪い笑い声を上げた。
その笑い声から伝わってくる狂気に私は身がすくんだ。このままではカイトが危ない。なんとかしなくちゃ……。そう分かってはいてもなかなか足が動かない。
男が手にもった鉄串の先端をカイトに向けた。
「カイト逃げて!」
私の言葉に即座に反応してカイトがリビングへと走っていく。
男がゆっくりとそれを追いかける。
また薄気味悪い笑い声をあげた。まるでこの状況を楽しんでいるようだった。
頭の中でもうひとりの自分が、もうこのまま諦めてカイトを男に手渡して、自分のためだけに人生を生きろと悪魔のように囁く。
「馬鹿馬鹿馬鹿!」
私はそんな考えを振り切るように、自分の頬を手で叩いて自分を奮いたたせた。
カイトを助けろ。カイトは諦めろ。カイトを助けろ。カイトは諦めろ。
ぐるぐると頭の中で相反する考えが交互に入り乱れる。
カイトがリビングの床に置いていた洗濯物に足を取られて転んだ。
そこへ男が近寄りカイトを見下ろす。
男が鉄串の先端をカイトの目前まで近づけた。
その時……。
「ユキナさん! 開けてくださいセリナです!」
その声と共に玄関のドアノブがガチャガチャと回された。
「我はピチピチJC、その眩い輝きはお前の暗黒を全て光で覆い尽くし浄化する! オンアビラウンケンソワカ!」
セリナの絶叫が部屋の中へと強引に入り込んだ。
男の動きが固まった。そして私は我に帰った。
私は玄関に走り解錠して扉を開けた。
「お邪魔します!」
扉が開いた瞬間、セリナが無駄のない颯爽とした動きで部屋へと入っていく。靴も素早くきちんと脱いでいた。
セリナはバドミントンのユニフォーム姿だった。
不思議とそれに違和感は覚えなかった。
セリナは一目散に男とカイトの元へと駆け寄る。
男の動きは止まったままだ。
セリナは肩から下げていた年季の入った白い布の鞄から、お経のような文字が墨で書かれた短い木の棒を取り出した。あれは警策と呼ばれる物か?いやそれともまた違う物のように見えた。
「バケモノ! ここはあんたが来る所じゃない!」
セリナが木の棒で男の背中をまるでラケットを振るように思い切り殴打した。
男が悲鳴を上げる。
セリナは木の棒を男に向けたまま、ぐるっと回り込んでリビングの奥にあるベランダへと降りる窓を開け放った。
もう一度セリナは男に近づき、まるでベランダへと誘導するように木の棒を男の背中に何度も打ちつける。まるで飼い主に調教される家畜のように男がベランダの方へと歩いていく。
あと一歩でベランダの外へという所で男の動きが止まる。
セリナが何度木の棒を打ちつけても、ギリギリの所で男が踏ん張っている。
「これ以上は無理かも……あとはユキナさん、あなたの力が必要です!」
セリナがくるっと後ろを振り向き私に向かって叫んだ。
私の力?私に何が出来るのだろう?私はただただ無力なだけじゃないか。
「バケモノはね、人間の心の闇につけこんで来る物なんです。ユキナさんがカイト君の事、叶えられなった夢についてきちんと折り合いをつける事が出来ればバケモノの付け入る隙はなくなるんです!」
折り合い?いったいどうすればつけられるのか。私は途方にくれてしまった。教えてほしい。折り合いの付け方を。
「そんな事言われたって簡単じゃないのよ! どうすればいいのよ!」
私はありったけの力を込めて叫んだ。
「セリナさんカイト君を見てください。セリナさんにとってまずなにより大切な物はカイト君じゃないんですか?」
私はカイトを見つめた。カイトが今にも泣き出しそうな顔で私を見つめていた。その目は悲しい時、痛い時、寂しい時に、私が必要だと訴える時に見せる目をしていた。
私はいつもその目を見るとカイトがとても愛おしくてたまらくなる。守ってあげたくなる。たった今その瞬間もその気持ちが心に灯った。
「カイト君の命を宿したから夢を諦めた。もしカイト君を産んでなかったら違う人生を歩めていた。そうかもしれないけど時間は巻き戻せないじゃないですか。それならまずは愛おしいカイト君を全力で守ってあげてください。子供に罪はないんです!」
セリナの言う通りだ。カイトをまずなによりも大切にしなければいけない。カイトはまだ一人では生きていけないのだから……。
「セリナさん諦めないでください。カイト君を大事に育てながら違う形で、違う何かでまた夢を追うことができるはずだと思います」
私はカイトを言い訳にしてただ諦めていただけなのだろうか。セリナの言葉にはっとさせられた。違う形、違う何か、私の夢……。私はそんな可能性を自ら放棄してたのか?
「中学生の私が言ったら生意気かもしれないけど、セリナさんの人生まだまだこれからですよ」
こちらに背を向けていた男がくるっと振り返ると、手に持っていた鉄串を振り上げた。そして斜め後ろにいるセリナに向かってそれを思い切り振り下ろす。
私は思わず悲鳴を上げた。
しかしセリナは俊敏な動きでそれを何事もなく避けた。
そして再び木の棒を男の肩に打ち付けた。
男の悲鳴がこだまする。
「悪あがきはよせ! もうすぐお前の闇は光で覆い尽くす!」
セリナの威厳のこもった声はとても中学生とは思えない。その場の空気をあきらかに支配しているのはセリナだと分かる。
「カイト君、ママにこれからも頑張ってって言ってあげて。ママに大好きって言ってあげて。そう言えばママに力をつけられるの。そうすればこのバケモノはここからいなくなるよ」
セリナの優しくも力強い呼び掛けに、カイトはぎゅっと両手を握った。
そして私の顔を見ながら叫んだ。
「ママこれからも頑張って! ママ大好き!」
目にいっぱい涙を貯めながらカイトが私の元へと駆け寄ってくる。私はしゃがんで両手を目一杯広げてそれを受け止めた。 私はぎゅっとカイトを抱き締めた。カイトも私を小さな手で抱き締めた。
「ママもカイトのこと大好きだよ……」
荘厳で美しい鐘の音が鳴り響いた。薄暗かった部屋に再び光が差した。
「オンアビラウンケンソワカ!」
そう唱えたセリナの力強い声の後に男の絶叫が聞こえた。
私はベランダの方を見た。
男の姿が歪んでいた。そして色が次第に薄くなっていく。そして一枚のペラペラな紙切れにその姿を変えると、風に乗ってベランダから空へと吸い込まれて消えた。
木曜日
「サクラ、私頑張るからね……」
私は心の中でそう呟きながら、お墓の前で手を合わせた。
カイトも私を真似て目を閉じ手を合わせた。
お線香の煙が風に乗って私とカイトを優しく包みこんだ。
サクラに優しく背中を押された気がした。
サクラは大学四年の夏に亡くなっていた。交差点の横断歩道で信号待ちをしている時に、猛スピードで突っ込んできた飲酒運転の車に跳ね飛ばされたのだ。
疎遠になっていたのは、私が結婚したからではない。サクラがあの世に旅立ったからだ。
私は何故かそんな大切な事をすっかり忘れていた。いや、忘れていた訳ではない。忘れられる訳がない。それなのにサクラが月曜日クリニックで私の目の前に現れたとき、彼女がそこにいることを私は何の疑問も持たず、何故かすんなりと受け入れた。という方が正しい。
火曜日に送られてきたラインも、昨日掛かってきた電話も私は何の躊躇いもなく受け入れていた。
月曜日クリニックで会ったサクラは、もうこの世の物ではなくなった彼女の幽霊だった。
セリナが、サクラの幽霊が現れたのはすべてこの街のあの世とこの世の境界が曖昧になっているせいなのではないかと言った。
さらにセリナは、バケモノが私を陥れるためにサクラの霊を利用したのではないかとも言っていた。
バケモノは恐ろしいほどに狡猾に私の心の暗部につけ込もうとしていたのだ
サクラは医療機器メーカーに就職の内定を貰っていた。
サクラと私は高校時代よく話し合っていた。
主婦になるよりも社会に出て働き続けたいねと。
私たちはそういうタイプだよねと。
放課後駅前のドーナッツショップに何時間も入り浸って。
クリニックに現れたサクラが、キラキラと輝いて働いている姿を見せてくれた事は私にとって救いになったと今は感じている。
たとえそれが、私の中にある後悔とコンプレックスを刺激して陥れるためにバケモノが仕組んだ事だとしてもだ。
生きていたらサクラはきっとあんな風に輝いていたに違いない。
私はそう確信している。
私は心に決めた事がある。
マサヒコと離婚をして、一人でカイトを育てていく。
いつまでたっても煮え切らないあんな男は放っておいて、さっさと私だけで前に進むことにしたのだ。
私はこれから就職先を探すことになる。
決して楽な道じゃない。困難な道に決まっている。
それでも私はその困難に立ち向かっていく覚悟を決めた。
各方面、色々な人たちや制度の助けを借りながらカイトと一緒に幸せになると私は決めたのだ。
もう心の中ににバケモノが入り込んでくる余地がないくらいに強くなりたい。
いやならなければならない。迷いを振り切って。後悔もコンプレックスと上手く共存しながら。
私はカイトの小さな手をぎゅっ強くと握った。
この手が立派に大きくなるまでママ頑張るからね。
そんな思いを込めて。
〈第三章『産まなければよかった』おわり〉
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