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【連作短編ホラー】呪いの言葉がトリガー最終章『記憶にございません』7

木曜日3

 私は不思議と恐怖を感じなかった。あまりにも目にしている光景が現実離れしているからだろうか。
 私は身動ぎもせずただ口を半開きにして、ぼんやりと巨体な骸骨となったミヤビを見つめていた。
 ミヤビの頭蓋骨が、がしゃりと背骨を軋ませて動き始めると私を真上から見下ろす位置へとやってきた。眼球は抜け落ちているのに、その視線が私を捉えているのが分かる。二十年ぶりに私とミヤビは見つめあっていた。
 しばらく見つめあっていると細い金属音のような耳鳴りが私の聴覚を奪った。そした頭の中に懐かしい声がノイズ混じりのラジオ音のように鳴り響いてきた。

「先生……酷い……私の事を忘れるなんて……」

 そう呟く、か細く儚げなミヤビの声が聞こえた。
 私はミヤビの、痛々しいほどに華奢で折れてしまいそうに骨張った、しかし絹のように真っ白く手触りの良い肌を持った裸体を思い出した。
 私はそれを一時の欲望のために抱き続けた。
 ミヤビは本気で私に惚れていた。でも私には愛着はあれど本物の愛はなかった。
 私の頭の中でミヤビと共にした時間の記憶が鮮やかに蘇ってきた。
 銀座のクラブ街のネオン、人目を盗んで逢い引きをしたホテルの部屋から見えた光る夜景、ミヤビが寝ていたベッドのくしゃくしゃになったシーツ……。それらのどの光景にも、私の手を握る骨張ったミヤビの細い指の感触が伴った。そうだ。私たちは何度も手を握りあった。

 巨大な骸骨になったミヤビがまたがしゃりと骨を軋ませてその大きな右手を私に差し出すように目の前へと持ってきた。
 私はふと郷愁に駆られて、その大きな右手の、太すぎる人差し指の先に手のひらを当てた。

「先生思い出した? 私のこと……」
 ミヤビの声がまた頭の中で鳴り響いた。
「あぁ、思い出したよ。懐かしいな……」
 私はきちんと音になったかどうか不明瞭な声でそう呟いた。

「良かった……。でもね先生……。私は先生を許さない。絶対に……」

 がしゃりと音を立ててミヤビの巨大な右掌の骨が私の全身を包みこんだ。私はミヤビに握りしめられたのだ。
 私の体が地面から浮いた。ミヤビが私を持ち上げた。身動き出来ずぐんぐんと私は上へ上へと持ち上がる。あっという間にミヤビの頭蓋骨の位置まで持ち上がった。なんとか首を動かし下を見る。ミズエとセリナの姿がかろうじて認識できた。ビルの十階ほどの高さまで来ている感覚だった。
 
「先生を私がここから落としたら、先生はどうなる?」

 か細く儚げなミヤビの声が不気味な色を帯びた。ミヤビは本気だと私は即座に理解した。
 私の胸中に死への恐怖が沸き上がった。

「許してくれミヤビ! 君には申し訳ない事をした! 謝る! 本当にすまなかった!」

 私は絶叫した。許しを乞うた。
 しかしミヤビは許してはくれなかった。
 私の体は虚しく解放された。
 私は猛スピードで地上へと落下していく。
 森の木々たちの幹や枝葉が目に入るが、ただ茶色や緑に塗りたくられた壁にしか見えなかった。
 私は死を覚悟した。
 あともう少しで地面だ。死なんて物はこうもあっけなく訪れるものなのだな……。
 そう思った瞬間────。

 私の体がふわっともう一度宙に浮かび上がると、パラシュートが開いたようにゆっくりとゆっくりと再び下降を始めた。
 私の体はぐしゃぐしゃにならずに、その形を保ったまま地上へとたどり着いた。
 私は尻餅をついてその場に座り込む。
 目の前に二人分の人間の足がある。見上げるとミズエとセリナが目を閉じ両手を合わせ、お経のような物を口に出して唱えていた。

 しばらくするとミズエとセリナが目を開けて私を見下ろした。
 ミズエは眉間に皺を寄せ険しい表情をしながら深い溜め息を私を詰るように大袈裟に吐いた。セリナは対照的に安堵したように顔を綻ばせている。

「とりあえず良かった。私とセリナでミヤビさんの力を少しでも弱められるように祈ってました」
ミズエがぶっきらぼうにそう吐き捨てるように言った。
「まだ安心できません!」
 セリナが叫んだその瞬間、がしゃりとミヤビが骨を軋ませる音が鳴り響いた。
 ミズエとセリナが私の腕を掴むと思い切り引きずった。
「また先生のこと掴もうとしてました。あっぶねぇ……」
 セリナが目を見開きながら今時の若者らしい口調でそう言った。
「ミヤビの怒りを静めないと……」
 ミズエが誰に言うでもなくそう呟いた。
 セリナが肩から下げた鞄から金色の鐘を慌てて取り出すとミズエに手渡した。
 ミズエがチリンと鐘を一度鳴らした。
 厳かに澄んだ鐘の音が森の中を真一文字に通り抜けたような気がした。

「我は万物の慈母、大いなる太陽から力を授かりし者。その祈りは闇を祓う。オンアビラウンケンソワカ!」

 ミズエがそんな呪文のような言葉を叫ぶと、ミヤビの動きがピタッと静止した。ミズエが続ける。

「ミヤビ、あたなの無念と怒りはとてもよく理解できるわ。こんな糞みたいな男は私も殺してやりたい。報いを受けるべき。でもとりあえず一旦はその怒りをおさめてくれない? 私がちゃんとしかるべき方向に持っていくから!」
 ミズエがこんなにも必死に表情を歪ませ何かを訴える姿を私は初めて見た。いつも落ち着き払い、堂々とした品の良さを崩さなかったミズエが、そんな物をかなぐり捨てて訴えていた。

「私からもお願いします!」
 セリナもミズエがと同じ熱量でそう叫んだ。

 するとミヤビの足がズブズブと地中へと入り込み沈んでいく。
 足の骨が沈み、骨盤が沈み、肋骨が沈む……。どんどんと巨大な骸骨は地中へも埋まっていく。鎖骨が沈み、そして頭蓋骨が沈んでいく。
 巨大な骸骨、ミヤビは再び土へと還った。

 茫然としている私の頬にミズエの平手が飛んできた。焼けるような痛みが私の頬に走った。

「すいません……つい……」
 ミズエが私から目を反らし空を見上げながらそう呟いた。
 ミズエにそんな事をされても私には何の感情も沸かなかった。当然の事として受け入れた。

「先生、こんな事になってもまだお認めにならないつもりですか? 記憶にないと言い張りますか?」

 そう言うミズエは、意地でも私の事を視界に入れないという強い意思を持って空を見上げ続けていた。
 私はなにも答えずにただ黙っていた。返す言葉が見つからなかった。倫理的に反している事は分かっている。それでもすぐには答えは出せない。安易な事は言えない。それが本音だった。

「なるほど。よっぽど性根が腐っていらっしゃるようですね。それなら仕方ありません!」

 ミズエはそう叫ぶと指笛を吹いた。
 無数の気配が私を取り囲んだ。
 狐だ。狐がまた何頭もうじゃうじゃと群れを成していた。
 ミズエがぱちんと指を鳴らすと、狐たちが真っ青な炎へと姿を変えた。
 怒りに燃えた炎たちが私に向かって寄り集まってくる。私は逃げたいのに逃げられなかった。金縛りにあったように動けなかった。
 私のすぐ側まで青い炎が近づくと私を一気に飲み込んだ。
 猛烈な熱さが私を焼いた。
 私は意識を失った。

金曜日

 ふと目を覚ますと見慣れた天井の模様が目に飛び込んできた。私は咄嗟に上半身を起こして周囲を必死に見渡した。そこは私の家の寝室だった。
 周囲を見渡す視界の中に、バドミントンのユニフォームのような服を着た女の姿があった。

「先生起きた! 良かったぁ!」
 目を見開いて素っ頓狂な声を出したのはセリナだった。
「わ、私は青い炎に焼かれて……」
 訳も分からず混乱したままそう私が呟くと、「あれはお祖母ちゃんが見せた幻です。本物の炎じゃありません。でも効果凄くて先生気を失っちゃって……」
 そうセリナが大変な事態を思い起こすように頭を人差し指で掻きながらそう言った。

「いやぁ先生を森の中で運ぶの大変でしたよ! お祖母ちゃんはすぐ腰が痛い腰が痛いって言うから何度も休憩して。時間掛かりましたぁ」
 セリナの口振りはまるで友達と遊んだときの思い出を話すように軽やかだった。

「私はどれくらい気を失ってた? 今はいつだ?」
「今は金曜日の夕方です。部活終わりに寄らせて貰いました。だから気を失ってたのは丸一日ですかね」
 セリナはそう言うと綻ばせていた顔を真剣な面持ちに変えた。そして私を鋭い眼差しで見つめた。ミズエの森の中での眼差しを思い出した。私は身構えた。

「まずは一昨日の事を謝ります。狐を除霊しましたけどお祖母ちゃんに言われて一匹だけ残して帰ったんです。すいませんでした。そしてですね先生、今日ここへ来たのは完全に呪いを解くためです。昨日は一時的にミヤビさんの怒りを静めただけであってまだ完璧ではありません」

 セリナの口調に突然威厳が篭った。何十歳と離れている私ですら畏怖の念を覚えるような言葉だった。無邪気な女子中学生はもうそこにはいなかった。

「先生は気づいてないかもしれませんが、先生の背後にはずっとミヤビさんが取り憑いていました。私もお祖母ちゃんも気づいていたけどあえて知らせませんでした。ミヤビさんだけを除霊しても完璧ではありません。先生がきちんとミヤビさんの存在を常に頭の中に置いて、罪を世間に告白し悔い改める事が必要です」

 セリナの言葉は、言葉を重ねるごとに熱を帯びていった。その凄みに私は否応なしに説得させられそうになった。

「先生、将来を担う……って自分で言うのは恥ずかしいですが……そんな私たちにお手本というやつを見せてください。お願いします」

 セリナそう言うと頭を下げた。
 その姿を見て、もう逃げきることは出来ないのかもしれない。そう思った。私は覚悟を決めた。

「分かった。私は明日警察へ行くよ。ミヤビにも詫びる。司法の裁きを受ける。これでどうかね……」

 私は出来るだけ心を落ち着けて淡々とそう伝えた。
 セリナは満面の笑顔になって「ありがとうございます」そう一言だけ言った。

 セリナは肩から下げていた鞄から金色の鐘を取り出すとそれを一回鳴らした。そして、
「ミヤビさん、あなたの辛い気持ちが晴れることなんてずっとないと思います。それでもミヤビさんには穏やかに成仏してほしいんです。もうミヤビさんのような悲しい思いをする人を出さないために、私たち若い世代が頑張りますから。女が糞みたいな男に虐げられない世界を作ります」
 私の右肩あたりを、泣きそう眼差しで見つめながらそう言った。
 そして続けて、
「我はピチピチJC、その眩い輝きはあなたの暗黒を全て光で覆い尽くし浄化する。オンアビラウンケンソワカ……オンアビラウンケンソワカ……」

 そう呪文のような言葉を重く呟いた。

 その瞬間、私の肩から重い荷物が降りたような気がした。肩が明らかに軽くなっていた。今まで意識していなかっただけで、私はずっと肩に重い荷物を背負っていたのだ。ミヤビの怨念という荷物を……。

「ミヤビさんは先生から離れていきました。穏やかな表情でした」
 そう微笑みながらセリナは言うと鐘を鞄にしまい立ち上がった。帰ろうとするセリナを私は引き留めた。

「一つ聞きたいことがあるんだが、家内が見ていた女の幽霊っていうのはミヤビなのかね?」
「おそらくそうでしょうね……」
「なぜミヤビは私の前に現れず家内に姿を見せたのだろう?」
「女同士の何かがあるんでしょうね……。私にはまだ分からない世界ですけど」
 セリナは顔をくしゃくしゃにしかめながらそう言うと、軽く苦笑いした。

「それじゃ先生。私はこれで失礼します。明日よろしくお願いします」
 そう言ってセリナは深く頭を下げると寝室から出ていた。

「奥さん、この前貰ったケーキすごく美味しかったですう!」
 部屋の外からセリナと家内の楽しそうな会話が聞こえてきた。今まで起きてきた事が嘘のような平和な空気感だった。
 私はその声を聞きながら、殺人事件の時効は何年なのかを思い出そうとしていた。

〈最終章『記憶にございません』おわり〉




 





 

 
 
 

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