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【連作短編ホラー】呪いの言葉がトリガー最終章『記憶にございません』6

木曜日2

 私は呆気に取られてしばらく虚空を見つめていた。後ろから追いかけて来た足音がすぐ側まで来ているのに、それにはまったく意識が向かなかった。

「城定先生、井上ミヤビ。その名前に覚えはないのですか?」
 背後から声がした。
 穏やかで品のある艶やかな声。それでいてその声には、相手の心へとごく自然に深入りしてくる迫力と凄みがあった。
 私は倒れたまま後ろを振り返る。
 二人の女が私の事をじっと見下ろしていた。
 一人は、あの悪夢と同じ女。白いブラウスにジーンズ姿のミズエだった。
 私は恐る恐るミズエの隣にいる女の顔を見た。
 女の顔は正常な人間のあるべき形を保っていた。紫色に変色も、風船のように膨れ上がってもいない。
 もう一人の女はセリナだった。

「どうしてここに……」
 私はカラカラに干からびた喉から精一杯の囁き声を捻り出した。
「セリナが先生を霊視した時に頭に手を置きましたよね? その時一本髪の毛を拝借いたしまして。髪の毛があればその主の動きを把握する事が出来るのです」
 ミズエはそう言うと私に手を差し出した。
 私がその手を握る事に躊躇していると、ミズエは無理矢理に私の手首を掴んで引き上げた。私はそれに抗えずに立ち上がる事を余儀なくされた。
 ミズエと私の目線の高さが合った。ミズエは私の顔を鋭い眼光で睨んでいた。
「先生。井上ミヤビという名前に本当に覚えはないのですか?」
「井上……ミヤビ……。さぁねぇ?」
 その名前に覚えなどない。本当だ。しかし、その名前の響きは何故か私を猛烈に苛立たせた。思わず口調がぶっきらぼうになる。
「覚えがないと仰るのならば仕方ありません。強制的に先生の心と記憶の蓋を取り払わなければなりません」
 そう言うとミズエはセリナに向かって手を差し出した。眼光鋭いミズエと対照的に不安げな表情を浮かべるセリナは、肩から下げた鞄からお経のような文字が書かれた木の棒を取り出しミズエに手渡した。
 ミズエがお経のような言葉を呟くと、私の体は金縛りにあったように身動きが取れなくなった。
 ミズエが私の方へとにじりよって木の棒を振り上げた。そして私の肩目掛けてそれを思い切り振り下ろした。
 位置も強度も寸分の狂いなく私の肩へと木の棒が命中する。
 痛みなど感じる暇もなく私の意識はどこかへ飛んでいった。

 気がつくと私は馬乗りになって女の首を両手で締めつけていた。
 女は紺色のスーツを着ていた。水商売の女が着るような艶やかなスーツだった。
 女が私の背中へ爪をたて必死に抵抗する。足をじたばたとさせてもがいている。
 女の顔が真っ赤になる。赤を通り越して紫色に変色しそうなほどだ。
 女の抵抗も必死だが、同じくらい私も必死だった。
 力一杯、全身全霊をかけて、死に物狂いで私は女を殺さなければいけなかった。この女の存在を無き物にしなければいけなかった。
 この女と私の関係をなかったことにしなければいけなかったのだ。
 市議会議員選挙に私は立候補した。初当選がかかっていた。不倫がマスコミに、有権者に知れ渡るなどもっての他だった。
 それなのにこの女は週刊誌に喋ると脅してきた。
 だから私は。この女を殺さなければいけなかったのだ。
「ミヤビ……許してくれぇ……」
 薄暗く光の届かない森の中、全身の力が抜けきって動かなくなった井上ミヤビの死体に向かって私はそう呟いた。
 罪悪感はあったが、後悔は微塵もなかった。
 持ってきたスコップで死体を埋める穴を掘ろうとするが、そこら中に張り巡らされた固い木の根たちに阻まれてしまう。
 舌打ちを繰り返しながら、手当たり次第スコップを地面に差していき、深く掘れそうな所はどこかにないかを探っていく。
 五分ほど掛けてどうにか見つけた丁度良さそうな場所で私は深い深い穴を掘った。その中にミヤビを落として土を被せた。
 あとは帰るだけなのに、何故か名残惜しい気持ちがそこで湧いてきた。しばらく黙ってぼうっとミヤビを埋めた場所を見つめていた。
 カラスの絶叫に似た鳴き声が真上から耳に届いた。それで私は我に帰った。そうだ。私は市議会議員として為さねば成らぬ事があるのだ。志のために多少の犠牲は必要なのだ。恥じることなど何もないじゃないか。
 私はそう自分に言い聞かせながら堂々と胸を張って、森を出ていった。
 二十年前。私が四十歳の時の出来事だ。

 ふと気づくと、目の前に眼光鋭いミズエがいた。二十年前のミズエではない。時は現在に戻っていた。

「先生思い出しましたか? 井上ミヤビは私と同じ銀座のクラブで働いていたホステスです。あなたと不倫関係にあった。でもある日突然音沙汰がなくなった。ミヤビが邪魔になったあなたが殺し、この森に埋めたからです」
 ミズエが軽蔑の眼差しを私に向けた。そんな眼差しに何も恐れる事などない。私は後悔などしていない。私はやるべき事をやっただけなのだから。
「私はこの街についての調査で、この森にたどり着きました。森の中に立ち入ったときに全てが視えたのです。苦しみに悶えるミヤビの姿と先生の悪行が」
 ミズエの声は怒りに震えていた。隣のセリナは泣きそうな顔をして私をじっと見つめていた。
 そんな二人の姿を見ても私の心は少しも揺るがなかった。為すべき事のために仕方なかった事なのだ。これからも私は為すべき事をするのだ。そんな私の思いを示さなければならない。
「ミズエさん。私がここで何を喋ると思う?」
「さぁ何でしょう?」
「私の言うことは前と変わらないよ。私に覚えなどない。井上ミヤビなんて名前には」
 ミズエがあしらうように私の言葉を鼻で笑ったあと、
「先生。この再開発工事が進んでいけばこの森の中に埋められたミヤビの白骨死体は掘り起こされるのです。だから先生の悪行が白日の元に晒されるのも時間の問題です! だからその前に罪を白状してください! 自首してください!」 
 そう凄みを持って叫んだ。
「白骨死体? そんなものが出たって私の言うことは変わらないさ……」
 私は勤めて冷静さを保ちそうミズエに告げた。
 ミズエは深い溜め息を吐くと目を固く閉じた。しばらくして再び目を開くと、指笛を吹いた。

 ざざっ……。ざざざざっ……。ざざざざっ……。
 何かがぞろぞろと群れを成して何処からか現れ、私たち三人を取り囲んだ。
 周囲を見渡す。四方八方、三百六十度至る所に狐がうじゃうじゃといた。一匹、二匹、三匹……。数えきれないほどの狐、狐、狐。
「先生にはとことん自分自身と向き合ってもらったつもりです。向き合って向き合って本当の自分を、自分がしたことを見つけて欲しかったのです。だけど足りなかったみたいですね」
 ミズエはそう言った後、指をぱちんと一回鳴らした。
 するとすべての狐たちが姿を変えはじめた。背が伸び、二本足で立ち、長い手が生えた。狐が人間にあっという間に化けた。
 顔が出来て、髪が生え、筋肉が盛り上がって、男が完成した。
 その男は私と姿形が一緒だった。散々私の家の中で私を詰り、痛めつけ、馬鹿にしてきた〈もう一人の私〉だった。
 何体もいる〈もう一人の私〉たちが、うじゃうじゃと私を取り囲んでいた。
 右の口角を上げ目を細め、不気味な笑みを浮かべながら一斉に群れを成して〈もう一人の私〉たちが、私に向かってくる。
「こ、これをずっと私に見せていたのはミズエさんだったのか!」
 私は思わずそう叫んだ。
「その通りです先生。先生に罪を自覚してもらうために全て私が仕組んだことです!」
 ミズエが私の叫びを上回るような絶叫を返した。
〈もう一人の私〉たちが、一斉に同じ言葉を同じトーンで喋りはじめた。
「おやおや先生何怯えてるんだよ? お前は俺で俺はお前なんだよ。何を怖がることがあるのさ?」
 言葉の節々に嘲るような含み笑いを忍ばせているのが、私の屈辱感と苛立ちを呼び起こす。
 私は叫ばずにはいられなくなった。
「やめろ! やめろ! 離れろ! あっちいけ! 俺はお前なんかじゃない!」
〈もう一人の私〉たちが私を指差しながらゲラゲラと大声を上げて笑った。その笑い声は重なりあって、大きく分厚い壁となって私に襲いかかる。私の自我が崩壊しそうになる。
「やめろおおおおお!」
 私は両耳を手で押さえつけながら絶叫した。〈もう一人の私〉たちが追い打ちをかけるように私に声の壁を押し付けてくる。
「先生さぁ。かっこつけるなよ。森の再開発に反対したのは自然と緑を守るためとか、商店街を守るとかそんな理由じゃないんだろ? 単に自分の罪を隠し通したいっていう卑しい目的のためだろ? 正直になれよ。自分は卑しくて見苦しくていやらしい人間だってさぁ!」
 私は絶対に認めない。私はそんなんじゃない。お前と一緒にするな。意地でも貫き通してやる。私はとにかく精一杯に抗った。
「やめろおおおお! やめろおおおお! やめろやめろ!」
 私は一心不乱に叫び続けた。
 するとミズエが「もういいでしょう……」そう呟くと、ぱちんとまた指を鳴らした。
 うじゃうじゃといた〈もう一人の私〉たちも、狐たちもどこかへ消え去っていた。

「先生どうですか? 罪を認めてくれますか? ミヤビを殺した事を!」
 脱力感からその場にへたり込んだ私に向かってミズエがそう言って凄んだ。
「ミヤビ? 知らない。覚えはない。記憶にございませんだ。よく言うだろ政治家は」
 私は座り込んだまま、ミズエの事は見ずにそう言った。これでいいのだ。私は何故か笑いがこみ上げてきた。その笑いを噛み殺しながら、
「ははっ。記憶にございませんだ。まったく記憶にございません! 記憶にございません!」 
 そう繰り返した。
 と、その時────

 私が座り込んだ場所からすぐ目の前の地面が、小さな山が出来るように盛り上がった。
 その盛り上がりから何かがぬっと生えてきた。
 腐ったバナナのように真っ黒く変色した指だった。嫌な匂いが鼻をつく。
 親指以外の四本が先に姿を現し、しばらくして親指が姿を現した。手のひらをこちらに向けている。みるみるうちに人間の手が土の中から生えてきた。
 だが人間の手にしては異様な大きさだった。まるで巨人の手だった。
 手が肘まで姿を現すと、目の前に広がる地面の土が一斉に空へと舞い上がった。
 砂埃が当たり一面を覆い尽くす。砂埃の中に巨大な何かが蠢いていた。
 やがて砂埃が微かな風に舞い霧散していくと、巨大な何かの全貌が明らかになった。
 森の木々たちと同じ背丈の巨大な全裸の女がそこにいた。真っ黒い肌が液状化してゼリーのように地上へとポタポタとこぼれ落ちている。顔も眼球も乳房も腹も足もポタポタと溶け出して崩れ落ちていく。巨大な女が苦しそうに猫背になり身体をカーブさせて私の方へと顔を突き出した。
 あれはミヤビ……。原型を少しも留めていないのにそうだとはっきり分かった。
 肌が崩れ落ち、今度は内蔵がボロボロと溶け出していく。地表に落ちたミヤビの欠片は土の中へとあっという間に吸収されていく。
 肌も内蔵も全て溶けきって白い骨だけを残したミヤビは、巨大な骸骨になった。
 その姿を私は浮世絵で見たことがあった。
 がしゃどくろ。確かそんな名前の妖怪だ。
 
 
 

 
 

  
 
 
 
 
  

 

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