【連作短編ホラー】呪いの言葉がトリガー 第三章『産まなければ良かった』2
火曜日
カイトの熱は下がったが、念のため今日も幼稚園は休ませることにした。
幼稚園に欠席の連絡を入れ、洗濯に取りかかる。
昨日油まみれになった服はカイトの分も含めてビニール袋の中に詰め込んで洗濯機の横に置いていた。
それを見ると昨日の恐怖が甦ってくる。
昨日の夕方、仕事から帰ってきた夫のマサヒコに橋の上での出来事について話したが「災難だったなぁ」と一言だけ言ったあとはへらへらと笑うばかりで真剣に取り合ってはくれなかった。
私はとにかく強烈に恐怖を感じたし、マサヒコにもそれが伝わるように話したつもりだったが無駄な努力だった。
もうずっとここ何年か、マサヒコは子育てにも私のことにも、家族のこれからについてさえ真剣に向き合ってくれなくなった。
口ではちゃんと考えているとは言うが、とてもそうとは思えない。
未就学児がいる家庭は特例で、世帯月収が規定以上の額あっても市営団地に住むことができるが、その子供が小学生にあがり未就学児がいなくなれば、この団地を出ていかなければいけないという決まりになっている。
もうすぐその時はやって来るというのに、今後どうするのか話し合いをしようと持ちかけても、頼りない返事が返ってくるだけなのだ。
私は心底マサヒコにはがっかりしている。
仕事も長続きせずにコロコロ変えていた。そのせいで収入も増えない。
なら私がパートに出ようとしてもカイトの面倒は誰が見るのだとそれを許さない。
昔は魅力的な男だった。その面影は今、もうどこにもない。
なんでこんな男と結婚してしまったのだろう。
毎日のようにそう思っている。
ラインの通知音がなった。
見るとサクラからのメッセージだった。
サクラから来るなんて何年ぶりだろう。
〈昨日はどうも! さっそくだけど明日ランチどうよ?〉
〈行く行く!〉と返信のメッセージを入力しかけた所で指を止めた。心に急ブレーキが掛かった。
今の私とサクラでは住んでいる世界が違うと、引け目を感じている自分がいた。
サクラと一緒にいたら惨めな気持ちになるのが目に見えている。会いたいけど会えない。
何のメッセージも送らずに私はスマホの画面を閉じた。
「ママ、お外で遊びたい」
カイトがベランダで洗濯物を干している私の足を叩きながらそう言った。
「風邪まだちゃんと治ってないんだからお部屋でおとなしくしてなけゃ駄目だよ。またお熱でちゃうよ」
カイトは私のその言葉に素直に従って部屋の中へとおとなしく戻っていった。
外で遊びたくなるくらい体調が回復したのなら安心だ。
ほっとすると同時に手がつけられなくなるほどに遊び回る姿を想像して憂鬱にもなった。
なんでこんなにも複雑で厄介な感情を持ち続けなければいけないのだろう。
そう考えていたら洗濯物を干す手が止まった。
空を見た。雲ひとつない。真っ青な空だ。
没個性に建ち並ぶ一軒家たちと電柱。私たちの部屋がある三階のベランダから見える景色は、決して見晴らしが良いとは言えない。だけど空はよく見える。
確かに外で遊びたくなるくらいの快晴だ。穏やかな風も気持ちいい。
しかし、そんな清々しい気持ちになったのは一瞬だった。
突然背筋に緊張が走った。
昨日橋の上で感じた殺気の籠った〈視線〉がまた私を捕らえているのだ。
いったいどこから?
私は後ろを振り返った。テレビを見ているカイトの姿と見慣れた部屋の様子がそこにあった。ここじゃない。
私はベランダの縁まで行き手をついて下を覗き込んだ。
道路と団地の敷地を隔てる生け垣。その生け垣と団地との間に、人が一人だけ通れるくらいのスペースがある。そこに目深に麦わら帽子を被った男が上を見上げていた。
帽子が影を作り顔はよく見えない。それでもはっきりと分かった。
あれだ。私に向けられていた〈視線〉はあれだ。
私の全身に鳥肌がたった。
通報しないと……。
昨日送られてきた防犯情報メッセージの文面が頭に浮かんだ。
私は部屋の中に入りスマホを手に取った。その瞬間、着信を知らせる流麗なメロディーが鳴った。
知らない番号からだった。
嫌な予感がした。
それでも出るべきなのか否か考える隙も与えられず、見えない何かに無理矢理導かれるかのように、私はその電話を受けた。
「おかあさんえんじてますか。いいあぶらがとれそうですね」
まるでカラスの鳴き声を押し潰したような男のダミ声がスマホの向こうでそう言った。
それだけで電話は切れた。
私は下にいた男からの電話だと直感した。
再びベランダに出て下を覗き込んだが、あの男はどこかに姿を消していた。
スマホを持つ手が震える。立ち尽くしたまま私はどうしたらいいのだろうかと考えを巡らせた。
やはり警察に電話した方がいいのだろうか。
カイトが不思議そうに私を見つめながら、「ママ、洗濯物干してないやつまだあるよ」そう言った。本当は「どうかしたの?」そう言いたいに違いない。
「うん大丈夫大丈夫。すぐにやるよ」
私はそう言って満面の作り笑顔をカイトに向けた。
作り笑顔……。電話の向こうの「おかあさんえんじてますか」の声が頭の中でこだましていた。
演じてますか?私は母親を演じているだけなのだろうか……。
いや、こんな時に私は何を考えているのだろう。そんなこと考えている暇はないじゃないか。そう我に帰った。
やはり警察に電話をしよう。私はスマホの画面に目をやった。電話をかける前に着信履歴を確認してメモを取っておこうと思った。スムーズに警察と電話でやり取り出来るようにしておくために。
確か非通知ではなく、電話番号が通知されていたはずだ。
「えっ?」
確認するとさっきの電話の着信履歴が無くなっていた。昨日クリニックに掛けた電話の履歴が記録の最後だった。
無意識のうちに履歴を消去をした?いや、そんな訳がない。あの男からの電話が切れたあと私は一切スマホの画面を操作していない。
治まりかけていた鳥肌が再び全身に立ち登った。あの男はもしかしてこの世の物じゃない?
そんなあり得ない考えが頭を支配し始めたその時、玄関チャイムが鳴った。
「いやっ!」驚きのあまり私は悲鳴を上げスマホを床に落とした。
「ママ?」カイトがビクッと体を震わせたあと私の顔を不安と怯えが混じった表情で見つめていた。
「ごめんね大丈夫だよ」
カイトを不安にさせないように私は優しく語りかけたつもりだったが、明らかに声が震えていた。
不安にさせちゃ駄目だと思いながらも、もしかしてあの男がここまでやってきたのではないかという想像が私の恐怖を駆り立てていた。
出来れば無視してしまいたい。でも無視したらカイトが不審に思い、さらに不安を深めてしまうかもしれない。
だから行かなくては。
私は震える足をなんとか動かして玄関まで歩いていった。
そして恐る恐るドアスコープを覗いた。
玄関前に立っていたのは、上下黒いジャージを着たショートカットの若い女だった。
「ど、どちら様ですか?」
私は一度深呼吸したあと、決死の思いでそう口に出した。
後ろを振り返るとカイトが泣きそうな顔で立ち尽くしながら私を見ていた。
「突然訪ねてしまってすいません。私はK中学の横山セリナって言います」
言葉の選び方に中学生っぽさはあるが、口ぶりはとても落ち着いた雰囲気だった。舞台俳優が演技をしているときのような美声だった。
しかし今は平日の午前だ。中学生なら学校に行かなくていいのだろうか?
「どういったご用件ですか?」
「友人に会いにこの団地に来たんですけど、この部屋から少し変な気が漂っているのをたまたま発見しまして……」
変な気が漂っている?心当たりが大有りである。
何なのだろうこの子は。
そう思いながらドアを開けるべきか黙って悩んでいると、慌てた様子の別の女の大きな声が聞こえてきた。
「す、すいませんユキナさん! マナミです! 尾木マナミです!」
「マナミちゃん?」
ドアスコープを再び覗くと、ショートカットの女、横山セリナの横に見知った尾木マナミの姿があった。
私の心に一気に安堵感が広がった。
尾木マナミは近所付き合いのある、同じ団地のママ友、ユカリの妹だった。
マナミは頻繁にこの団地にあるユカリの家へと遊びに来ていた。私がユカリの家に行くと高確率でマナミも居た。だからユカリと同じようにマナミとも仲良くしていたのだ。
私は扉を開けた。
セリナが私に頭を下げた。私も釣られて頭を下げた。
セリナはうっとりするほどの美形だった。中性的で何とも言えない神秘的なオーラがあった。
「すいませんユキナさん。突然変な事言ってびっくりですよね」
マナミが眉毛を思い切り下げて困り顔でそう言った。
「いやいや気にしないで。っていうか学校はどうしたの?」
「今日は創立記念日で休みなんです……」
マナミはそう言うと困り顔から嬉しそうな微笑みに表情を変えた。
私もマナミと同じ中学出身なのに今日がそんな日なんて事はすっかり忘れていた。
「実は昨日父親と喧嘩してムカついたんで家出して、お姉ちゃんのとこに泊めてもらってたんです。で、これから部活なんですけど、このイケメン先輩が迎えに来てくれて……」
マナミがセリナの腕に絡み付きながら嬉しさを隠しきれないといった様子でそう言った。恋人同士みたいだった。
「ちょっ近い近い! ベタベタするなって!」
クールな様子だったセリナが急に慌てふためいて、マナミを遠ざけようと腕に絡み付くマナミの手を振り払おうとした。
なんとも微笑ましい光景に、さっきまでの恐怖感が嘘のように溶けていた。
マナミが口を尖らせながらセリナから離れた。
するとセリナが真剣な表情に戻った。
「改めて申しますと、この部屋から変な気を感じたので訪ねさせてもらいました。ユキナさん。今、直接お目にかかって分かったことがあります。変な物に付きまとわれてますよね?」
変な物……。殺気の籠った視線と麦わら帽子の男。その事だろうか。もしそうだとしてなぜこの子に分かるのだろう?
「セリナ先輩は霊能力なんです」
マナミがぽつりとそう呟いた。
「失礼します」
そう言うとセリナは私の頭に手を置き目を閉じた。
私は思わず身が強ばった。
しばらくするとセリナは手を頭から離して目を開けた。
「ユキナさんの心の中にある、葛藤や複雑な思い見えました。そして昨日今日起こったことも……」
セリナの口調に重みと威厳が宿った気がした。嘘は言っていない。なぜだかそう確信出来た。
「麦わら帽子の男はこの世の物じゃないバケモノです。気をつけてください。バケモノは人間の心の闇につけこんで来るものなんです……」
セリナの視線が鋭く私を見据えていた。私は少しも身動きが取れそうにない。セリナの言葉をただ黙って聞くしかなかった。
「だから自分を卑下しないでください。ちゃんとお母さん出来てるから大丈夫ですよ」
セリナはそう言い終わるとニッコリと微笑んだ。
私は何故だか泣きそうになった。
「ありがとう……ございます……」
私はセリナの顔を見つめながら自然とそう呟いていた。
「あっ、もしよろしかったらユキナさんとお子さんの髪の毛を一本頂けませんか? 何かあったときにそれがあれば駆けつけることが出来るんです」
セリナのその言葉に私は戸惑いながらどうすればよいかマナミに助けを求めた。
「大丈夫ですよ! セリナ先輩は信用できますから!」
マナミがキラキラとした笑顔でそう言ったので、私は髪の毛を差し出すことにした。
セリナが私の髪の毛を一本抜いた。
「カイト君! 元気してた?」
後ろでずっと立って私たちのやり取りを見ていたカイトにマナミが声をかけた。
マナミに懐いているカイトが玄関の方へと笑顔で駆け寄ってきた。
マナミがカイトの髪の毛を一本抜いた。
抜いた髪の毛をセリナが透明ビニールの小袋に入れて、それを肩から下げていた鞄にしまった。
「今この街はあの世とこの世の境が曖昧になっています。バケモノを近づけないために玄関とベランダに盛り塩をしておいたらいいかと思います。神社に行って魔除けの御守りを買って出掛けるときには身に付けたりとかしてもいいかもしれません。それじゃ私たちは部活に行きます。失礼しました」
セリナはそう言って頭を下げた。
「ユキナさんそれじゃ! カイト君バイバイ!」
マナミがカイトに向かって手を振った。カイトはマナミが行ってしまうのが寂しいといった表情で手を振り返していた。
セリナには、まだ中学生だとは思えない存在の説得力と威厳があった。
私はセリナの言う通りにしようと決めた。
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