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戸辺七段の背中

将棋教室

 戸辺七段は自由が丘に将棋教室を持つ。自由が丘に将棋を指しに行った。ひさしぶりだ。これまで電車を使っていたところ、自転車で行った。グーグルで調べると1時間の行程だという。これまでの電車移動でも、自由が丘には1時間前よりも、もっと早く家を出ないと間に合わないイメージなので、自転車で1時間なんて可能なのか?距離は16キロ。ということは、平均速度16キロで走らなければならない。信号待ちの時間を考えると不可能なように思える。やってみると本当にちょうど1時間で着いた。グーグル正しい。たゆまずペダルを回した。汗をかいた。その結果が平均的な走りであるということに、多少傷ついた。この半年ほど毎日uber eatsで自転車に乗っている俺だからだ。

 さて、将棋教室である。

 戸辺先生は一人で10人の相手をする。教室には他にも八代七段がいた。レギュラー講師という扱いだ。以前は杉本四段がレギュラー講師だったので、交代があったのかもしれない。
 これが、ひさしぶりということ。昨日と今日は同じではない。俺がご無沙汰をしている間に、杉本四段はお嫁さんをもらっている。杉本四段会いたさに、通う女性ファンがいた。結婚後、彼女たちはどうなったのだろう。一方で八代七段は独り身だ。杉本四段と系は違うが、同様にハンサムの部類。ファンの動員も見込めよう。今回の交代劇が、戸辺先生の主導であるなら、なかなかの策略家だ。普及のための教室といえども経営だ。

将棋は角落ちで教わった。

 いつもは囲いを蟹囲いぐらいにとどめて、攻めを伺うのだけれども、今回は矢倉にちゃんと囲ってから、攻めた。上手の攻めを食らわないように気をつけた。久しぶりだったので、ていねいに。具体的には上手の銀の出足に注意した。

 俺が築いた矢倉は縦に厚みがある陣形。差し回しも冴えて、出てきた銀を、ひっこめることに成功、戸辺先生相手に、ものすごく俺が押し込む将棋となった。上手に歩を切らせず、全部の筋でへこませているのが大きい。一番嫌な、と金攻めがない。

優勢になった

 俺はゆっくりと棒銀に向かい、それが間に合う。銀交換なる。追撃は、十字飛車の筋。十字飛車自体が実現したわけではないが、ちらつかせることで、純粋な桂得を果たす。桂得の代償に歩切れになったということもない。
 戸辺先生に、中盤で一本入れたのは初めてではないか。

 とはいえ、上手もさるもの棒銀で交換された銀と、出足を止めたはずの銀2枚が、俺の矢倉にからみつき、瞬く間に囲いを崩される。しかしここからの追撃はというと、どうなのか。上手に飛び道具はない。歩を切らせていないので、と金作りもできない。手段は乏しいように思えた。一方、こちらは囲いを崩された代償に、持ち駒を得た。飛車もいいところに利いている。俺が決めきれれば、勝ちだ。

 上手の王様の頭に歩を叩く。寄せに入る歩打ちだ。持ち駒の銀と桂は温存。戸辺先生は「いい手だなあ」と感心。「今日は、好手連発ですね」 戸辺先生は同歩と取る。

 さて、この歩を銀で取るか、角で取るか。

間違えた

 銀で取って完封勝ち! パチリ。

 残念。これが悪手で、逆用される。さっき歩を取った銀の裏に、手裏剣が放たれた。全然見えていなかった。見ればいかにも手筋といった歩の叩き。ものの見事に下手陣の急所に突き刺さった。これで逆転らしい。

待った

 ここまでの将棋の流れを、評価してくれていた戸辺先生は、「もったいないから、待ったしませんか」と提案した。「待ったします」
 悪手の地点に戻り、歩を銀ではなく、角で取った。
 俺は銀で取った方が、盤面を制圧できると考えたが、守りが薄くなっていたのだった。

 しかし、角で取ると、戸辺先生の王様が、上に逃げてくるんだよな。局面は、勝ち。それはわかるけれども。
 射程が5手ぐらいしかない俺に終局図は見えない。こちらの攻めに応じて、ふらふらと上がってくる戸辺玉をどう寄せたものか。持ち駒の銀を打って、通せんぼをするのが第一感なんだけど、それには一手受けられて、こっちも数を足す、そしたらまた戸辺先生も数を足してくるだろう。盤面に駒が多くなり、局面が複雑になる。複雑はいかん。間違いの素。

 シンプルに竜を作ることにした。

 その間に王様はさらに上に逃がってくるのだけれど、竜の力で何とかできないか。

 なんとかできた。いい手だったみたい。数手で視界が開けた。

 戸辺玉を後ろから追う形とはいえ、こちらの竜と成り桂の配置が、どうにも手厚い形になった。盤面に現われてしまえば、こんなに簡単だったのかと思える手順。

 戸辺先生が、負けましたと頭を下げた。

修羅の道

 しかし、あの将棋…角落ち将棋の純粋な桂得…が、歩を一発、入れられただけで、簡単に逆転してしまうとは。「将棋とは恐ろしいものですねえ」と言うと、戸辺先生は

「そういう世界で生きてるんですよ」

 くるっと体を返し、俺と向かいの席の人との将棋に向かった。

 この時の背中がかっこよかった。苦難の振り飛車党若頭にして、B級2組の番人の背中だ。女子なら惚れているところ。おじさんの俺でもあぶなかった。

この文章で上がった収益は、全てボス村松の演劇活動と植毛に充てられます。砂漠に水を。セイブ ザ ボース。