見出し画像

「もうろうをいきる」を観て

先日友人から紹介されたドキュメンタリー映画を見た。
「盲聾を生きる」。その名の通り、目の見えない方と耳の聞こえない方、その両方の方にスポットを当てたドキュメンタリーです。

各々に障害のある中、それぞれの人生を生きる姿を目の当たりにすると、心に残るものがありました。
苦しみや不安、その中での希望や楽しみ、淡々と写実に人を捉えていました。

特に印象に残った事は、私は知らなかったのですが、
目も見えず、耳も聞こえない方の手に触って点字や手話をするシーンがありました。 こうやってコミュニケーションを取るんだと驚きました。

映画の中でこんな詩が紡がれていました。
『指先の宇宙』
「ぼくが指先を通してきみとコミュニケートするとき そこに新たな世界が生まれ ぼくは再び世界を発見した」
「コミュニケーションはぼくの命 ぼくの命は いつも言葉とともにある」

目も耳も聞こえない真っ暗な世界に、指先から言語が流れてくる。そこに世界が生まれ命が誕生する。
「なんかすごいな」と思いました。

仏教的に言うと、私達は分別の世界の中にいます。自分と他人、物や景色、総べてが言語化され分けられます。

夢枕獏氏の「空海」の小説の一節だったと思いますが、

空海と唐の仙人との問答があり、「この世界で一番小さいものは何か?」と仙人が問うた所、空海は「言葉」だと言います。

それは何故かと仙人が問うたとき。
「なぜなら言葉にできないくらい小さいものがあったとして、あなたはそれをどうやって示すのですか?」と空海が答えます。

言葉によって分別し、この世界が成り立っていると言えます。

しかし仏教は、空を説きます。 
例えば自分という身体も川の流れのように、そこにあるように見えますが、
実際は川の水が常に入れ替わっているように、私達の身体も爪や髪の毛をみればわかるように入れ替わっています。
何年か前にあった人は全く違う物質で出来ているかもしれません。

心もまた、刹那刹那に因縁して確実なものはありません。

そうした「私が」という分別を超えたところ、ATフィールドがなくなって溶けてしまって分別がなくなる境地が一つの悟りであります。
そうするとあらゆるものと一つであり、自分も他人もなく、自分にこだわって苦しくなる事もなく、あらゆるものを慈しみの心でみれる境地があるのだと思います。

これはこれですごい世界だと思います。

うまくいえないのですが、先の詩
「ぼくが指先を通してきみとコミュニケートするとき そこに新たな世界が生まれ ぼくは再び世界を発見した」
「コミュニケーションはぼくの命 ぼくの命は いつも言葉とともにある」

私達は分別の世界で生きています。 言葉があるからこそ、世界ができる。例え本来は、仮の存在(空)であっても、その言葉の世界に輝く命もある。

本質は空であって、そこが深い悟りの境地であって、そこに向かって精進していくことは大切なのでしょう。

しかし今、分別の世界で生きているすべての生命を、大切に大切にして生きて行くことが密教の教えなのではないかと思ったりします。

上手く言えないけど、先の詩に世界と命の輝きを感じました。

http://mourouwoikiru.com/


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?