コロナウイルスに罹りたいですか?

お寺でおたよりをだしてまして、せっかくですのでNOTEに小出しに書いていきたいと思います。

田舎でコロナウイルスは、罹るより周りの人の目が怖いです。 ちょっとした心の隙間から感染した人たちを、人間的本能、「自分を守りたい」ということが強調され、非難が強く発生します。

「コロナウイルスにかかりたいと思いますか?」と言われたら、殆どの人が「絶対にかかりたくない」と言うとおもいます。
私達は自分の体をもって生まれてきています。人間も動物も、「生きたい」という欲求をもって生まれて来ています。

ですから自分が一番大切に思うように私達は作られています。そうじゃなければ、次の時代へどんな生命も「いのち」を繋いで行くことができません。
その生命を脅かすウイルスには、かかりたくないという生存本能が働きます。ウイルスに罹った人を懐疑的にみてしまったり、誹謗してしまう事もあるでしょう、恐ろしいからです。
しかし、私達人間は同時に、「人を思いやる」事もできる存在です。自分の家族がなったらどうでしょう、「なんとか助けてあげたい」、「社会復帰させてあげたい」と思うと思います。
 思いやりの心があるからこそ、たくさんの時を重ね今私達はここにあるのだと思います。「明日は我が身」、いつ自分がかかってもおかしくはありません。思いやりの心を忘れずに、この危機を乗り越えていきたいですね。

「凡聖不二」という教えがあります。 「凡」とは人間は先に述べたように自分中心に物事を考えてしまう事、「聖」とは、仏さんの心で、「思いやり、慈悲の心」です。「不二」とは、その心を私達は同時にもって生まれて来ているという事です。
「自分だけが助かりたい」、そう思う心は誰しもが少なからず持っています。
しかし、それでは生きていくのに孤独で寂しい人生になってしまう。お互いが助け合って「ありがとう」と言える支え合う人生になるために、仏さんの心を育ていきましょうというのが弘法大師の五綱目の中に書かれています。是非この教えを忘れずに、このピンチを乗り切っていきたいです。


「コロナショック」は全世界共通の「痛み」となりました、あのときは大変だったねと全世界で「ありがとう」といえるような関係を築く事ができれば良いなと思っています。

田舎であって、その人が危害を加えないのであれば、「大丈夫? 大変だけど2週間我慢しよう」とか、そんな優しい世界になってほしいです。


また、リモートワークや学校のテレビ授業等、これを機に変わっていくこともあるかもしれません。時代が変わっていく中でも、「思いやり」の心をわすれずに精進していきたいです。


とはいえ、現実には不安で一杯になってしまいます。 こんなときだからこそ、相手の立場を考える時間。また自粛機関のように。お時間がありましたらこの機会に、「下座行」お部屋を片付けたり、本を読んでみたり、写経も良いと思います。新しい価値を見出してみてはいかがでしょう。

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