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天上天下唯我独尊を考える

一昔前に暴走族の漫画が流行り、「天上天下唯我独尊」と書かれた特攻服を目にした、その時は「この世で一番だとか、最も強い人」みたいなイメージで捉えていたのを記憶している。

しかし、仏教を学びこれがブッタ、お釈迦様の言葉ということを知った。お釈迦様が誕生した時に七歩歩いて、「天上天下唯我独尊」と天を指差し、地を指差し言ったのであると。

ここでの意味は「天の上にも、天の下にも 自分という人間はたった一つしか無い 尊い存在なのだ」という意味になる。
総べての存在は、とても大切なたった一つしか無い「いのち」である。

仏教を学ぶと幸せとは主体的なもので、「何もない一日が幸せだったと感じられるかは、その人次第である」、要するに、「有り難かったか、つまらなかったか」を決めるのは自分の心がそうしている。

私は本当に豊かな時代に生まれた、食べるものには困らないし、学校も行けた、生活もできている。普通に幸せな環境だと思う。

天上天下唯我独尊、一人ひとりがそれぞれにたった一つしか無い存在なのだから、それぞれに幸せや困難、出来ることがあるのだと言う。

しかし懸念があった、じゃあ「飢えで苦しんでいる人」や、「戦争の中にある人」、自分の力ではどうしようもならない状況の下にある人達は、私が言うことではないが、本当に幸せは自分次第と言えるのか?
希望の見えない状況において、たった一つの尊い「いのち」が奪われていく現状で、人生を幸せに捉える事が可能なのだろうか?

最近その答えとはいかないが感慨深く感じた事があった。
檀家さんに進められてV・E・フランクルの「夜と霧」を読んだ。
驚いた・こんな世界が現実で起こっていたとは、知らなかった。
この本はアウシュビッツ強制収容所の様子を描いている。様々な残虐で過酷な死と直結してる様子を生々しく語っている。

そうした状況下の中で筆者はこのようなことを書いていた。
「人間の尊厳が損なわれる、絶対的な強制状況の下にあっても、死ぬその時まで自分の態度を取る自由は失われない」。
つまりそういった状況の中でも、一部の人は「優しい言葉をかける」、「自分も飢えているのにパンを一切れ分ける事ができる」、人間としての尊厳を保つ自由が最後の最後まであるのだと言うことを述べていた。

つまり「一人の人間がどんなにさけられない運命とその苦悩をどうやって受けとっていくか、それぞれの苦悩を自分の人生として、どう引き受けて生きていくのかは、どんなに困難な状況にあっても、生命の最後の一分まで、自分の人生を有意義に形づくる豊かな可能性が開かれているのである。」とも述べていて、

また誰も自分の苦しみを誰かが変わって苦しみ抜くことは出来ない、普通の生活にある「創造的な自由」や「人生の意味」を考えるといったものから、かけ離れている中で、その苦しみをどうやって乗り越えていくのかが彼らの生命の意義であった。
そして、たとえ人生が収容所で苦悩と死に終わったとしても、自分の愛した人が安らかであるように願った人生は決して無意味なのではない、それぞれの「いのち」は意味があるのだとも述べている。

私がこうした状況下に自分がおかれたらどうだろうと想像すると、本当に恐い、逃げたくなる。それなのに、こうした考えに近いブッタの教えを広める立場で、私は言葉だけだなとつくづく思う。

仏教では
「実のごとく自分を知ることが悟りである(大日経)」、
「それ仏法はるかに非ず身中ににして即ち近し(空海)」等、
どんな人でも心の持ちよう、また自分自身を知ることによって、世界が変わると説いている。

「天上天下唯我独尊、総べての存在はたった一つしか無い尊い存在」
人はそれぞれ違いどんな状況下にあっても、その苦しみは自分だけのものであって、それを克服し、また生を喜ぶ事も、自分の心や態度があらためて大切なものだと感じ。
先に述べた「飢えや戦争の状況下に置かれた人」であっても、人生を有意義に過ごす豊かな可能性はあるのだと、「幸せじゃないんじゃないか」なんて勝手に思うなと、自分勝手な心に反省です。

しかし実際にこうした現実があって、そういった事をきちんと心に留めて仏教の考え、価値観を広げられるように、また自分自身もそういった強さを持てるよう精進していきたいと感じました。

アウシュビッツ強制収容所の犠牲になられた方のご冥福をお祈り致します。

心に響くものがありましたので、書きとどめておきます。


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