見出し画像

絵に対する変化 〜坂口恭平さんの個展を経て〜

ずっと
ウジウジしていた。

創作活動をしたい気持ちはずっと心にあったまま。

絵を描きたい、絵本を描きたい、詩集を作りたい、ブログを書きたい、本を作りたい・・・

でも、なぜかずっと動けない。

なぜだかやる気がちっとも出ない。

尻込みしてしまう。


なぜなのか?


意味を求めすぎている。

好きにやればいいだけなのに。


やる前から、色々めんどうに思って
結局やらずじまい。

そうやって、ウジウジして、やりたいと思いつつも
ずっとできていない。


この間、坂口恭平さんの個展を見に熊本まで行ってきた。

そこには、自由があった。

とても美しかった。


遠くから見ると写真に見えるのに、

近くで見るとやっぱり絵で。

不思議で不思議で、何回も近寄ったり離れたりして見ていた。


ものすごい数の作品があり、

一点一点に見入ってしまうため、

時間がいくらあっても足りないくらい。


坂口さんの絵には、五感があった。
まるでその場にいるかのように。
絵が生きていた。

知らない景色のはずなのに、知っている景色のよう。

草木や海辺の匂い、風の感触、水の冷たさを感じる。

そして、何とも言えない、心の感覚。

エモいと言ってしまうとチープなんだけど、
あの、かんじ。

写真よりも、ずっと、景色が生きていた。
そんな絵を見たのは初めてだった。

日常の景色はこんなにも美しくて、
優しくて、
いつもそばにあって。

魔女の宅急便のテーマソング
「やさしさに包まれたなら」の一節を思いだした。

やさしさに包まれたなら きっと 目に映る全てのことはメッセージ



坂口さんが絵を描いている様子がムービーに映し出されていたんだけど、

迷うことなく、思うままに、流れるように、
サッサッサッサッ
と描いていたのがとても印象的だった。

それを見て、
「あぁ、いいんだ」って思った。

坂口さんのnoteの記事や本を読んでいるが、文章も同じで。

思考のままに。感じたままに。流れるように。そのままをかいている。


衝撃だった。

あぁ、色々考えすぎてたんだって、

人からどう見られるかを気にしすぎてたんだって、

気づかされた。


もっと、ありのまま、自由に、思うままでいいんだ。

それが気持ちよくて
美しくて、
本来あるべき姿なんだって思えた。


今、こうして書いている文章も流れている。

下書きなんかなくて、ただ、今、思いついたことをキーボードに打っていくんだ。



ぼくも はやく いちにんまえに なりたい


きみは なにを 想うのかな


なにも めざして とんでない
ただ きれいだから


ぼくは きぼうを 叫びつづける

坂口さんの個展を見終わって、絵を描いてみた。

今までと違う作風だ。


めっちゃ自由に描いた。

色がただ美しくて、

クレヨンの描きごこちが心地よくて。


下の3枚は、一気に描いた。
1枚あたり40分くらいだ。

流れるように描いた。


今までは色鉛筆を中心に絵を描いていたんだけど、
色鉛筆は繊細すぎて。
途中で塗るのがめんどくさくなることがよくあった。

水彩も、乾く時間を待てずに、色が混ざって汚くなったり。

でも、クレヨンは、ガシガシ描ける。
大きなキャンパスにのびのび描ける。

色を塗る面積も大きいから、
インスピレーションのままに
どんどん描ける。

絵を描くことは好きなはずなんだけど、
途中で飽きたり、疲れたりしていた。

それが絵を描くのになぜか億劫になっていた一因だったのかもしれない、と今思った。


画材は、性格で向き不向きがあるんだ。

私は、色鉛筆も好きだし、水彩も好きだ。

でも、私はちまちま作業が得意じゃない。

思い出せば、子どもの頃の絵は、

おっきな紙に、おっきくのびのびと描いていた。

それがすごく楽しかったんだ。


あぁ、何だかスッキリしてきた。


こうして文章を書くことも、絵を描くこともデトックスになっている。


描いている最中が楽しい。

それだけでいいはずだ。


絵が楽しく描けなくなっていた時、自分が描く意味を考えていた。

その時は、お金の不安がつきまとっていたから、「絵がお金になったらいいのにな」と考えてしまっていて。

それが嫌だった。

昔は、絵を描くことが純粋に楽しかったはずなのに。
ただそれだけで満足していたはずなのに。


4年前、鬱になって休職した。
ちょっとだけ元気になってきた時、Twitterに絵を上げるようになった。

絵を描くことが楽しくて、でも、自信は全くなくて。

でも、誰かと繋がりたくて、見てほしくて、Twitterを始めたんだろう。

最初は、ひとつハートがつくだけで、飛び上がるほど嬉しかった。

それから、コメントで「ほっこりしました」といった言葉をもらったりして、涙が出るほど嬉しかった。

当初、自分には生きている価値なんてないんだ、と本気で思っていたから、

「あぁ、自分も生きる意味があるのかもしれない」

と思うことができた。

それから一日一絵を始めたんだけど、絵を描くことで自分の存在意義を保っていた。


でも、徐々に絵を描くことが楽しくなくなっていった。

絵を描くことが作業になったり、めんどうだと感じたり。


ただ、1年は毎日描き続けるって決めたから、描いていた。

でも、1年を超えたら、とうとう描かなくなってしまった。


絵を描くことで自分は救われていたはずなのに、

絵を描くことが自分を苦しめるようになった。

周りの評価が気になってきて、前よりも全然ハートがつかなくなったな、とか、

うまい人の絵を見ると、自分の絵がちっぽけで下手に感じてきたりして。

「他にうまい人がたくさんいるのに、私が描く意味なんてないじゃない」
と荒んでいた時期がけっこう長かった。


鬱で傷病手当をもらいながら暮らしていたが、もらえる期限もどんどん短くなっていって。

働ける自信なんてこれっぽっちもなくて、どうやって生きればいいのか、絶望してた。

お金の不安が常につきまとってたから、どうにか絵がお金にならないかなって考えてしまったり。

でも、それが嫌だった。どんどん自由じゃなくなっていった。

絵を上手い、下手で考えるようになったり、

周りと比べてしまったり。


絵を描く意味を考えてしまう。絵を描くときにどうにか利益にならないか、と常に頭にチラつく。

利益にならないなら、描く意味なんてないと考えてしまう。

そうじゃないはずなのに。


ただ、あの頃のように純粋に絵を楽しみたいのに。




そんな呪縛があったんだ。


ずっと思うように絵がかけていなかった。

どこかで、絵を描くことに劣等感を感じてた。

自分が描く意味なんてないじゃんって。

絵を描きたいって気持ちは常にあった。
でも、描けない。

絵をお金にしたい思いもあるけど、でもそんなこと考えないで、楽しく描きたいって思ってた。


「ありのままに、楽しんで描く。」

それがとても難しかった。


ただ、誰かのために絵を描くのは別だった。

友達の結婚祝いの似顔絵や、おばあちゃんの似顔絵を描いていた時は楽しかった。

誰かのために描くのは、楽しかった。

喜んでもらえるのが嬉しくて。

それが絵を描く意味だったから。


話が戻るが、

今回、絵を描いてみて、本当にのびのび描けた。

それが久しぶりで嬉しかった。


子どもの頃のままに描けたように感じる。

描いてる最中は最高に楽しかった。



ただ、描き終わった後に、

なぜかまた意味を探してしまう自分がいる。


楽しく描けたことに意味があり、それで十分なはずなのに。


評価を気にしてしまっているのか、

そんなことは気にしたくはないのに、なぜか気になる。


もう、承認欲求は自分で満たせるようになってきたと思っていたはずなんだけどな。


今、またニートになっているからかな。
どこかで、またお金につなげたいと考えてしまっているからかな。



絵をただ自由に描けばいいはずなのに、またごちゃごちゃ考え始める。


まだ、模索中。

でも、一歩進んだ。


やっと、楽しめるようになったんだ。

自由に描けるようになったんだ。

この感覚を忘れたくない。












最後まで読んでくださり、ありがとうございます(^O^) スキやコメントしていただけたら、とても嬉しいです! やる気が出るので、また記事を書く活力になります。 生きるの大変ですが、みなさんの優しさにいつも救われています。 いつもありがとうございます。