ジェイラボオープンワークショップ#02 準備記事「Think 『Think difficult!』 difficult!」
一次元的射影のくせに
part1は「学力」、そしてそれに大きく関連する「受験」についての例えが多く使われる。
ここでいう本質的な賢さとは抽象性を伴ったものだが、受験に太刀打ちするためであればその場しのぎの具体的な解放暗記をすることもまあ悪くない。
受験で、賢さは、測れない。
受験で測れるのは一次元的な「数」である。それは明確に上下が規定できる点数であり、賢さそのものではない。賢さという指標において純に上下関係が定義できると無自覚に思ってしまっていたとしたなら、それは受験に毒されていると言えるだろう。
(今回は範囲外だが)Feel differentシリーズでは「資本」「金融」の話も多々触れられる。
お金で、人間は、測れない。
お金とは一次元的な「数」である。それは通貨単位で明確に上下が規定できるものであり、人間そのものではない。人間を捉える際に真っ先に年収が思い当たるのだとしたら、それはそのお金の軸に支配されているからに他ならない。
また、「SNS」の話もよく引き合いに出される。
SNSは、体験を、与えない。
SNSで並べられるのは一次元的な文字の配列である。先ほどまでとは違い、ただの数による上下(文字数の大小)で測られるわけではないため質的評価が入る余地はあるものの、所詮140字(今はそれ以上打てるとかそういう話ではない)である。そこに知的構造物は建てられない。人に体験を与えられるはずもない。
まずそこを自覚することだ。点数、お金、短文はあまりにも含む情報が少なすぎる。少なくとも、そこからその背後にある膨大な背景を予想して復元することは不可能である。射影は、可逆では、ない。
しかし、言語にだけは、点数やお金ではないものが生まれる余地がある。情報の配列を緻密に(結果膨大に)組み上げることにより、高次の知的構造物を生むことができる。一次元的射影なので言語化した時点で大量の情報を捨てているのだが、その先にはそれを現実の束縛から逃れて組み合わせることができる自由がある。依然として射影は可逆ではないのだが、射影した先で組み上げられる建造物は、射影前の段階では、文字通り、考えられなかったものとして我々に入力される。可逆でないからこその創造性がここにはある。考えることは入力と出力のサイクルを回すことである。
思想家として
哲学者:内発的に言語的な問いが湧き上がって仕方がない人
思想家:哲学者ではないけど、哲学者を含む人間全体に資するため、他人の言語的運用を頑張ってなぞる人
として話を進める。
初めて一連の「Think difficult!」シリーズを読んだときの感想は、「哲学者ではないことへの落胆」であった。それなりに賢いと自認していたし、途中までは所長に「共感」したつもりで文章を読んでいたところ、「次々と言語的な問いが頭に湧き上がってこない人」として急に距離を取られてしまったのだ。
「そのような狂気に取り憑かれた自分だったら良いのに」と思うこの浅すぎる感想こそが、狂気に取り憑かれていないことの簡潔な証明であり、4年が経った今、ようやく思想家である私のことを受け入れることができ始めた。
身の丈を自覚し、その上で身の丈に合わない思考をすること。その第一歩にようやく立てたという感覚だ。
しかし、それは個人のためではなく人間全体のためだと所長は言う。私にとってはまだ、自分を考えることと人間全体を考えることが同値ではない。娯楽として思想に耽る今の段階から果たして抜け出せるのか。その答えが哲学者(と予想される方達)とのWSで見つけられるのか。楽しみである。
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