ジェイラボワークショップ第34回『数学の認知科学(後半)』【数学部】[20220704-0717] #JLWS

今回の記事は、ジェイラボ哲学部と合同で行なった「数学の認知科学」G.レイコフ/Rヌーニェス著の輪読の内容をベースに、ジェイラボ哲学部/数学部の合同でWSを行った内容のログとなります。

数学の認知科学の輪読とWS司会はコバさん、イヤープラグさざなみさん、私(Hiroto)、ていりふびにさんの4人で行いました。
またこのWSログは後半部分となるため、後半担当の私とていりふびにさんの語り部分の内容となります。
前半は第33回WSログでお読みいただけます。

物語の部分に★印をつけておきましたので、★だけを読めば物語部分は読めるようになっています。
それでは早速ログに移ります。

Day15

★ていりふびに

本日から数学部のWSとなります。数学部のWSも引き続き数学の認知科学について取り扱います。哲学部さんの取り扱った内容よりは数学の要素が強めになりますが、あくまで認知的な側面を重要視するので予備知識はなくても物語としては楽しめると思います。私の担当週では19世紀の解析学(微分積分)の厳密化を認知学的な側面から捉えていくことをテーマとしています。大学以降の数学の内容(ε-δ等)を一部
含むこともありますが、その部分を詳細には理解しなくても流れは分かるように書いていくので、細かい部分は理解せずに飛ばしてもらっても構いません。また、仕事が終わり次第の投稿になるので、投稿の時間が不定期になりますが、ご容赦ください。
それでは宜しくお願い致します。
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第III部 認知と理論のギャップ
【第1章 19世紀の数学】
19世紀は数学にとって大きな変容を遂げた時代である。特に解析学(微分積分)にとっては「厳密化」が進んだ時代と言われている。それまでの微分積分は高校の教科書に載っているような曖昧さぐらいだと考えてもらって構わない。
もう少し具体的にいうと、微分積分は物体の運動や加速を算術化するために発展していったため、人間の視覚的イメージがもとになっていた。
(例:限りなく近づけるが定義に使われている)
そこで19世紀の数学者たちはそのイメージによる「あいまい」、「直感的」なものを排除し、「精密」で「厳密」な理論を構築することに努めた。
明日以降はどのようにして彼らが厳密化を進めたのか、そしてそれが認知的にどのような意味があるかを話していきたい。

Day16

★ていりふびに

【第2章 空間の離散化】
数学者たちが微分積分の厳密化の手段として用いたのは空間(人間の視覚的イメージ)の「離散化」である。
我々は感覚的には自分たちの住んでいる空間をアナログで捉えている。動く物体は滑らかに動いているように感じるのが人間の認知として当然である。
このアナログな空間のことを本書では自然な意味で連続した空間と呼んでいる。先日述べたことをこの言葉で言い直すと、19世紀以前の微分積分は自然な意味で連続した空間を元に構成されていたということある。しかし、数学を厳密化するためには記号でアルゴリズム的に表現する必要がるため、空間をデジタル化して捉え直す、つまり離散化する必要があった。そして、離散化するために重要な役割を担っているのが「空間は点の集合である」というメタファーである。すなわち、絶対的に連続な空間が全ての物体に先立って存在するのではなく、空間が点によって構成されているということである。空間が点によって離散化されているとも言える。これにより、離散化された点(記号)を通して空間の議論をすることができる。大学以降の数学では〜空間というと、後者の意味での空間を指すことがほとんどである。
例:ベクトル空間、ヒルベルト空間、バナッハ空間
これは全て、空間が先立って存在するのではなく、ある条件を満たす要素(点)の集まりのことを空間と呼んでいる。

Day17

■ていりふびに

直線上の点は互いに接しているか?

:1: 接している    2
@あんまん, @チクシュルーブ隕石
:2: 接していない    13
@Takuma Kogawa, @Hiroto, @Yuta, @chiffon cake, @Naokimen, @蜆一朗, @匿名希望, @コバ, @ゆーろっぷ, @Yujin, @YY 12, @イスツクエ, @Tsubo
Created by @ていりふびに with /poll

今日はアンケンートのみになります!
明日の話に繋がる内容なので、是非考えてみてください。回答の理由を合わせてコメントして頂けると幸いです!
(返信は恐らく来週以降になりますが、必ず返します。)
細かい定義はあえてこちらでしていません。
点や直線の定義から考えて回答しても、感覚で回答てもらっても構いません!

■あんまん

現実の紙に鉛筆で直線を引いた時には、直線の一部分を拡大すると、黒鉛と黒鉛の間に隙間があるだろうが、理想的な(頭の中で考える)直線では、どれだけ拡大しても、隙間を埋める点を考えることができるので、点と点は接すると考えていいじゃないかなと感覚的に思います。

↪︎ていりふびに

後続の投稿でも述べていますが、人間の認知としてはあんまんさんの感覚が近いと思います。僕は数学を専攻していましたが、感覚的には接すると思っています。

Day18

■Hiroto

あえて数学的に。直線が空間上にあるとします。空間はR^3を考えます。R^3は位相的にハウスドルフ空間のため、直線上の相異なる点をとった場合、それぞれの点を中心とする開円板(周を含まない)があり、それらは共通部分を持ちません。その意味で接していないと考えます。

■Yuta

領域を持ったもの同士が接するかどうかは定義できると思いますが、点のような領域を持たない(だろう)もの同士では定義できないのではないかな、と考えました。「直線上」である意味はよくわからなかったので素朴に考えました。

↪︎ていりふびに

しじみさんの投稿にもありますが、数学的には「点と点が接する」という言い回しがおかしいです。
「直線」でも「曲線」でもよかったのですが、数学的にはおかしい「点と点が接する」ということが、正しいようにも聞こえる対象を選びました。

■チクシュルーブ隕石

ほとんどあんまんさんの考えと同じですが、点同士が接しているような理想的なモデルを考えられてしまうような気がしたので接しているに投票しました。

↪︎ていりふびに

点と点が接しているような数学的モデルを考えれていませんが、接していても異なる点があるのは面白そうです。その場合何をもって「点」とするのかが難しそうですね。

■Takuma Kogawa

複数の曲線が与えられたときに接するかどうかを考えたことはあります。一つの曲線だけが与えられ、それを点の集合と捉えなおして接するかどうかを考えること自体が適切なのかどうかがわかりませんでした。

↪︎ていりふびに

数学的には前者のように、曲線同士が接するかどうかを考えるのが一般的です。「点と点が接する」というのは認知的には適切にもなりうるというのが質問の意図としてありました。

■蜆一朗

Hiroto 君の言うように、位相空間的な話をするなら R^3 のハウスドルフ性から偽であると言うことになると思います。数学的に「接する」という概念を持ち出して考えられる対象ではないかもしれません。あんまん君のいうように直感的には同じ直線上の点と点とは共通部分を持つようなイメージがありますが、共通部分を持った時点で点ではないのかなと思いました。

↪︎ていりふびに

数学的にはそもそも「接する」という言葉は適切ではないと私も思います。共通部分を持つかどうかで考えると、その点のみが共通部分となるので、等しいとなりそうです。

★ていりふびに

【第3章 点と点】
前章で「空間は点の集合である」というメタファーについて触れたが、ここでいう「点」とは何かを見ていこう。この「点」について認知的な捉え方と数学的な捉え方にギャップがある。
一般的な認知では点を無限に小さな円盤として概念化する。点を描いてくださいと言われたら、おそらく多くの人が小さな円を描くだろう。しかし離散化された数学にとって点とは触れることのできる実態ではない。このことを「直線上の点は互いに接触しているのか」という問いから見ていこう。「直線上の点は互いに接しているのか」この問いに対する答えは二種類存在する。
1.もし接していないとしたら、点と点との間に隙間ができて連続にならないため接している。
2.もし直線上の点が接しているとしたら、これらの2点の間には距離がなく、同一の点になる。前者は点を無限に小さな円盤とするイメージから来る答えである。小さな円盤の周同士がぶつかっているというわけである。一方で後者は離散化された数学にとっての点、つまり空間(直線)を構成する要素としての点である。この問いからは接するという概念の違いも見えて来る。
離散化する数学にとって「接する2点」=「同じ点」である。一方で認知の世界、例えば手と壁が接するというと、我々の一般的な感覚では「手」が接している「点」と「壁」が接している「点」は別物である。しかし、離散化された数学の視点では「接する」というと「手」と「壁」が同じ点を共有しているとことになる。〜皆さんの回答を受けて〜
回答頂きありがとうございます。数学的にはHirtoさん、シジミさんの仰るように共有部分を持たず接していないということになります。隕石さんの仰る、接しているようなモデルが存在しているのかは検討していませんでしたが難しそうです。あくまでモデルなので条件を都合の良いように設定してあげれば構成できるかもしれませんが、、、今回の質問に対して多くの人は接していないとの回答でしたが、上述した「壁」と「手」の例では「接している」と考える人が多くなると思います。
定義や条件設定の問題も含まれますが、普段の我々の認知と数学における考え方が異なっているというのが少しでも感じられたら幸いです。
〜明日以降への接続〜
あんまんさんに回答いただいた内容が明日以降の「連続」の話に繋がっていきます。あんまんさんは「直線の連続性」から「点と点が接している」ことが自然だと考えたと思われます。(違ったらすいません)
この考え方は認知的に自然で、「点と点が接していない」つまり離散的な数学のモデルで連続を考えるは困難に思われます。
そこで、明日以降は数学者が「連続」を「離散」でどのように表現したのかを話していきます。次の投稿は土曜日になります。回答はいつでも受け付けています。
よろしくお願いします!

Day19

Day20

★ていりふびに

【第4章 連続性】
19世紀から微分積分学に厳密性を求めたのには、一つの大きな理由がある。それは本書で言う所のモンスター関数の登場である。ここでいう関数とは数と数の対応だと思ってもらえば良い。(例:y = x , y = sin x 1 等)
これまでの関数は平面上の曲線として表し、その幾何学的性質をもってして特徴付けされていた。しかし、モンスター関数は幾何学的(人間の視覚的イメージ)に性質を表現することができなかった。幾何学に代わる、離散的な表現を考案したのはワイエルシュトラスだと言われている。特に彼の業績の中で有名なのはε-δ論法と言われる連続性の新たな表現だ。この理論は暗黙に<<集合は点の集合である>>という概念メタファーが用いられている。曲線を曲線として捉えるのではなく、ある規則に従った点の集合だと考え、その離散的な点の性質を元に曲線(集合)の連続性を定義する。イプシロンデルタ論法による連続性の定義は下記のようになる。
「f(x)が点aにおいて連続であるとは
∀ε>0,∃δ>0,
0<∣x−a∣<δ⟹∣f(x)−b∣<ε」要は「移す前に近い点達は関数によって移した後も近い点になる」という意味だが、重要なことは連続性を各点aに対して定義していることである。我々が通常「連続性」というと曲線全体を見て連続かどうかを捉える。しかし、離散化された数学、ワイエルシュトラスの理論では集合の要素である各点に対して連続かどうかを問う。この理論を元にすると、曲線の性質を純粋な数(点)で捉えることができるので、モンスター達が連続かどうかを定義できる。
明日の最終日はモンスター関数について実例を挙げて、ワイエルシュトラスの理論ではモンスターの性質がどのように表現されるのか。そして、その表現と人間の認知のズレを説明します!

Day21

★ていりふびに

【厳密化の果て】
モンスター関数の例を一つ挙げる。

f(x) = 1 (xが無理数)、定義しない(xが有理数)

この関数は無理数で1、有理数で定義しないという関数である。有理数、無理数という言葉を使わずに説明すると、直線に「無数の穴」が空いているということである。この無数の「穴」を持つ直線は幾何学的イメージのみで数学的議論ができない。しかし、あえて感覚的にいうと「穴」が無数に存在しているため、連続な直線とは言えなそうである。しかし、ワイエルシュトラスの定義ではこの関数は「連続」である。

一方で
g(x) = 1 (xが無理数)、0(xが有理数)

この関数もf(x)と同じように直線に「無数の穴」が空いていて、似たような性質を持っているように見えるが、g(x)はワイエルシュトラスの意味においても「連続」でない。詳細な理由については触れないが、大雑把に言うとg(x)は1,0と値がジャンプしていて、f(x)はそもそも定義されていないためジャンプしていないと言う違いである。

そもそも、このような直線もどきが連続として定義されることにも違和感があるが、二つの似たような関数にこのような違いがあることにも違和感がある。この違和感の根源は「厳密化」のために線の性質を、<<空間は点の集合である>>と言う前提のもと、点の性質で示そうとしていることである。ここに認知的なギャップがある。

数学者の中にもこの「ギャップ」を問題視しているものがいた。
数学者のピアポイントは数学にはアイデアが必要であり、アイデアは人間の内部のものであるため、厳密に記号化できないことが分かっていた。しかし、彼も悩んだ末に数学のロマン(厳密性への展望)に抗うことはできず、この「厳密化」の後押しをすることになる。

【まとめ】
最後になりますが、私が本書におけるこのパートを読んでいて考えていたことを共有したいと思います。
私もピアポントが考えていたように、人間の数学のアイデアを完全に理論立てて厳密化することは不可能だと考えます。
それは人間は概念の「矛盾」を受けいれながら生きているからです。ある対象に対して二つの矛盾する考えがあったとしても、我々は別々の意識に焦点を合わせ、同時に注意を向けないことができます。しかし、「厳密」な数学においてそれは許されません。

私も本書を読むまでは「数学のロマン」、「数学の厳密性」を信じていた節がありました。今でも捨て切れているわけではありませんが、一部打ち壊されていることは否定できません。ただ、それによって数学に幻滅したのではなく、「愛着」が湧きました。今まで僕が学んできた理論は人間の営みそのものだと思っています。

私の担当は本日までになります。数学的な議論が一部あり難しかったかもしれませんが、数学の理論と認知のギャップ、そしてその根源について少しでも考えていただければ幸いです。

明日以降はHirotoさんのパートになります。
よろしくお願いします。

Day22

★Hiroto

Hirotoです。今週は何卒よろしくお願いします!
第Ⅳ部 俺たちは集合論を卒業できない
【第1章 俺たちが今までやってきた数学】
中高で我々はさまざまな数学の単元(環の可逆な元ではない)に触れてきた。ここでは一度それらを概観し、明らかに急に導入され、かつ浮いている"アイツ"を見つめ直したい。

■Hiroto

Q4.1. 皆さんの印象に残っている数学の単元はなんでしょうか。とくに社会人の方や文系の方の意見は貴重なのでお伺いしたいです。今日(明日?)に自分なりの全単元のまとめを出すつもりです。よろしくお願いします。

■HIroto

羅列すると、、
○中学1年
・正負の数
・文字と式
・方程式(一次)
・比例反比例
・平面図形(作図)
・空間図形
・資料の分析
○中学2年
・式の計算
・連立方程式
・一次関数
・平行と合同(平面図形)
・三角形と四角形
・確率
○中学3年
・多項式(展開・因数分解)
・平方根
・二次方程式
・二乗に比例する関数(二次関数の特殊なやつ)
・相似な図形
・円(円周角の定理など)
・三平方の定理
・標本調査

■Hiroto

羅列すると、、
○数学Ⅰ
・数と式(文字式・展開・因数分解・平方根などなど、中学復習+α)
・集合と命題
・二次関数
・図形と計量(三角比)
・データの分析
○数学A
・場合の数
・確率
・図形の性質(中学の初等幾何+α)
・整数の性質
○数学Ⅱ
・式と証明(恒等式など)
・複素数と方程式(iの代数的導入)
・図形と方程式(軌跡と領域など)
・三角関数
・指数関数と対数関数
・微分法
・積分法
○数学B
・平面上のベクトル
・空間のベクトル
・数列
・確率分布と統計的な推測
○数学Ⅲ
・複素数平面
・式と曲線(二次曲線など)
・関数(分数関数など)
・極限
・微分法
・微分法の応用
・積分法
・積分法の応用

■Hiroto

僕の印象に残っている単元
・中学の初等幾何全般
理論的な意味では「公理」に初めて触れ、論理の奥底を見た。問題演習的な意味では一筋縄ではいかない問題が多く、自分の力を試されているような気がして楽しかった。先生が小難しく解いた問題を、僕の考えた補助線で一発で解いたときの快感たるや。
また、中学1年でやる作図方法の正当性を中学2年以降の図形の知識で担保できたときは気持ちよかった。それが脳内で示せたあのときの風呂の中の光景を今でも覚えている。
・図形と方程式
数学Ⅰでやった「集合と命題」のありがたみをここにきて理解する。パラメータによる軌跡を考えることは「和集合」を考えることであり「存在命題」を考えることである、と気づいたときの快感たるや。
・式と証明、数列、データの分析
「分散の2通りの表し方」と「相関係数の絶対値は1以下」を示したときの快感は忘れられない。
データの分析の単元ではあるのだが、僕はここで「シグマ」と「コーシー・シュワルツの不等式」を自発的に学んだ。とくにコーシー・シュワルツのエレガントな証明(二次関数の判別式に持っていくやつ)は理解できた瞬間の脳汁がすごかった。本当に、そのときの自分の顔はエクスタシーを表していたと思う。

■蜆一朗

これまでの WS でも何度か語ってきているように、高校時代までは数学に対して何の良い印象もなかったというのが正直なところで、「ふ~ん」となって終わり Hiroto くんのような快感を覚えた記憶はなかったと思います。三角関数や数列なんかはいろんなことを訳もわからないまま覚えさせられたなぁという悪い印象ならありますT^T。本筋からは逸れますが、逆に日本史・世界史・英語・国語などには面白さやいい印象を持つことも多かったです。そんな感じで、数学は受験のためのものでしかないと思っていた僕でしたが、大学に入って数 III をやりだしてからは複素数平面を面白いなと思ったのを覚えています。今までにやったことをフルに使って統一的に表せる様子を見て、そこでようやく数学の良さに気が付いた感じです。

↪︎Hiroto

複素数平面はアナロジー思考の極致みたいな感じがします。ガウスはイカレるくらい頭いいと思います。

■チクシュルーブ隕石

僕は極限という単元が1番印象に残っています。特に級数の結果が自分の想像と全くもって違う結果となるのがとても面白いと共に無限というものの恐ろしさをダイレクトに感じ印象に強く残りました。
また図形と方程式の単元で軌跡を考える時に逆を確かめるとは何を担保することなのかという事を考える経験ができたためこの単元も印象に残っています。

↪︎Hiroto

無限が恐ろしい→わかります。まだ恐いです。
軌跡の単元では、必要十分に軌跡を求めなければならないということの重要性(当然性?)をあらためて認識しなければならないですよね。初学者にはそれが難しいのだと思います。

■Takuma Kogawa

数列の中の数学的帰納法は印象深いです。特殊例から一般化を試みることは習う前からふだんの生活でもやるようなことですが、法則を見出せるのは気持ちよかったです。今は逆に、仕事などにおいて安易に特殊例を一般化することにとても抵抗があり、数学以外でそういう言説を見ると気持ち悪く感じるようになりました。

↪︎Hiroto

数学的帰納法はたしかに面白いですね。数学以外の帰納法をあまり受け入れたくないというのは、数学的帰納法が実は演繹法であるという話と関係がある気がしています。この点に関して分からないことがあれば聞いていただければ解説いたします。

■YY 12

単元ではないのですが、微分の説明だったかで使った「極限」という概念は印象に残っています。
特に、正の分数のn乗に関してnのlimitを取るとそれが0になるというのは最初聞いた時驚いた記憶があります。普通無限と言ったら限りなく大きくなるイメージですが、消滅する(という言い方が適切か分かりませんが)というのが凄い新鮮でした。

↪︎Hiroto

たしかに!!!!無限の方向性として「微小」の方向があるのはたしかに刺激的だったかもしれません。そういったファーストタッチの印象をあらためて聞けるのはとても貴重でありがたいです。
1/3=0.333333... を小学校でやった時点で実は極限に触れているとも言えるのですが、改めて単元として習うと見方が変わりますよね。

■Naokimen

一番印象に残っているのは数学Aの整数の性質です。綺麗に解ける問題が多く、解けたとき、気持ち良いという印象があります。また、合同式を使うと答えがすぐに求まる問題が結構あり、合同式の考え方が面白いと思った記憶があります。

↪︎Hiroto

合同式は僕も初学のときビックリしました。商に関する情報を丸ごと捨象して演算して良いというのは、人間の脳のリソース的にも一旦受け入れられてしまえばかなり楽だと思います。ので、合同式を発展的内容にしてしまうのは僕は反対です。いらないものは捨象する大事さこそを伝えていきたいです。

■Yuta

・集合と命題
必要条件・十分条件を高3か1浪ぐらいまで理解できてませんでした。高3の時、記号論理学などをしっかり勉強すれば機械的に難しい問題も解けるようになるんじゃないかと思い学校の先生に相談しに行ったり迷走していたのを思い出します。あと、同値変形で解答を書かれている参考書や問題集があり、先生が「数学できるヤツは同値性をしっかり確認している」と言っていて、それもよくわからなかったのを思い出しました。
・図形と方程式(軌跡と領域)
ずっと何をしているのかよくわからないまま入試が終わりました。僕が高校数学で一番理解できてない分野だと思います。順像法、逆像法、逆手流、ファクシミリの原理etc…のワードは記憶に残っていますが説明はできませんし、今問題を解けと言われても多分解けません泣

学校や塾の授業は入試対策を意識していて難しい問題ばかり解かされましたが、全然自力で解けないのでちっとも楽しい思い出がないです。

↪︎Hiroto

問題意識が僕と本当に同じでとても親近感わきます。個人的にはそれは迷走ではなく、"stylishな遠回り"だと感じます笑。
僕と一緒に同値変形いっぱいしていきましょう。

Day23

■Hiroto

今日(月曜)は力尽きたので、明日(火曜)に続きを投稿します。返信もお待ちください。

■匿名希望

一番印象に残っているのは、数学1の判別式です。
高校受験まで、とりあえず式を解いて答えを出すという“作業“を行なっていたのが、それが図形で表されて、x軸と曲線の位置関係で決まるということを習い、何か、背景がわかったような、ああああ!って感じた記憶があります。また、判別式の値で、位置関係や、解が何個あるかを推定?特定できるということについても、ふわあ!てなって印象に残っています。また、判別式の値によって、分類されていて、それが理論でも説明がつく、というのが非常に新鮮に感じました。

↪︎Hiroto

これは非常に大事なことを示唆していると思っています。代数的な性質(解の個数)を幾何的な性質(グラフの交点)と見て動的に眺めるというのは人間の認知的にもかなりヤバいことをしているはずで、そこにビビッと気づける匿名さんはかなりメタ認知が働いていると思います(偉そうにすみません)。

★Hiroto

全単元まとめ
○代数学
数と演算を扱う。多項式(文字式)の話や、平方根や、方程式の話などはすべてここ。整数はぶっちゃけ少し浮いてはいるものの、高校範囲くらいであればここに入れて良いだろう。その流れで数列もここに入れるのが良さそう。大学まで数学をやるとこの流れでベクトルまで入れたくなるが、高校範囲だと少し違和感。
○幾何学
図形について論じる。平面図形、空間図形は全部ここ。ベクトルの話も代数的側面はあるが高校範囲ではここで良いだろう。式で定義された座標平面上の曲線(円や直線、その他のグラフ)などは幾何学と解析学の中間のような立ち位置。複素数平面は幾何学と代数学の中間のような立ち位置。
○解析学
変化や無限について論じる。極限、微分、積分は全部ここ。多項式関数、三角関数、指数関数、対数関数もここ。
○統計学その他
場合の数、確率、データ、統計はここ。大学以降では解析学との相性が良い。応用数学的な意味でここに分類しているが、高校の範囲では算数に近い。さあ、今見てきたのが高校までの数学のほぼ全単元である。これらを議論するのにもちろん論理は使う必要がある。しかし、集合論は本質的に必要なのだろうか??
「図形と方程式」の単元で使えるという意見は分かる。「場合の数」の単元で使えるという意見も分かる。しかし、論理と同列に扱うほど集合論とは汎用性の高いものなのだろうか?そして仮にそうだとして、皆さんはその恩恵を享受しているだろうか??

私が問題提起したかったのはこの「集合論の浮き具合」である。この浮き具合を強烈に意識しつつ、ここから先の話を聞いていただきたい。

★Hiroto

【第2章 公理主義ってなんだ?(バンバン)公理主義ってなんだ…?(神妙)】明確に定められた対象を論理を用いて操作する。数学の重要な側面である。論理による推論を遡っていくとどこに行き着くのか?終着駅などあるのか?
この一つの答えが公理である。公理とはあらかじめ与えておく前提のことだ。これは分野ごとにそれぞれ公理があってよい。そこから論理によって導かれるものを数学の対象とすることで、数学の方法論が一応は統一された。これが公理主義の考え方である。もちろん歴史的にはこのような方法が最初からとられていたわけではないことは強調しておく。
公理を述べるには、ものすごくざっくり言えば「主語」や「述語」や「関数」が必要である。これもそれぞれの分野ごとに設定して良い。
初等幾何では
主語は「点」「線」など
述語は「間にある」など
となる。大事なことは、それぞれの分野で公理を定めているという事実である。これによって、例えば「唯一絶対の幾何学」のようなものは存在し得なくなった。その幾何学とは他の公理系による幾何学を作ることができるからである。公理主義は一種の数学の相対化である、と言えそうだ。
私がここからどのように集合論の話につなげていくのか、予想しながら読んでみてください。

Day24

★Hiroto

【第3章 日本印度化計画ならぬ、数学集合論化計画 〜すべてを「含む」にしてしまえ〜】公理主義の考え方により、数学が相対化された話をした。とはいえ、なにか統一的(絶対的)なフォーマットがほしいという人情もやはりあるわけで、形式論理という形式にそれぞれの主語や述語を乗せているという状態では数学全体が少し散らかってしまうことは想像に難くないだろう。統一的なフォーマット(主語述語などの集まり)にはいくつか要請されることがある。
①根源的かつ身体的な概念がベースになっていてほしい
理由:統一的なフォーマットにするということは、全ての数学をそのフォーマットに乗せてコーディングすることを意味する。そんなめちゃくちゃ使う主語述語は、形式的にはただの文字列であったとしても、自然言語的に数学をしたい人間の気持ちからすると"スッと入ってくる概念に解釈できる"ことが死ぬほど重要である。スッと入ってくる、とはある程度直感的に扱えるという意味である。
②主語述語の種類は少ないのが良い
理由:せっかく統一するのだから、そのフォーマットの主語述語がたくさんあったら本末転倒である。統一志向を重んじたい気持ちがある。さあ、これらの要素を満たす根源的なフォーマットとは何か。人間が身体的に無意識下で納得している認知概念を用いたい(というか歴史的にはそんな意図ではないが、自然淘汰的にそうなる)。皆さん、思い出してほしい、、、、。イヤープラグさざなみさんが扱った、、、、、容器のスキーマを、、、、、、、、。 (明日へつづく)

■Hiroto

Q4.2.(というか頼み) 容器のスキーマとは何だったか、イヤープラグさんの投稿に戻って確認してみてください。その結果新たな気づきがあれば共有していただけると嬉しいです。

Day25

★Hiroto

【第4章 入ってるものに入ってりゃ、そりゃあ入ってるだろ】人間にとって「容器のスキーマ」は身体的に納得できる認知機構である。これは昨日述べた2つの条件を満たしているように思える。
昨日の②について具体的に言うと、
・主語は「集合(容器)」
・述語は「要素として含む(∈)」
とするのである。ここからなすべきことは、
①集合論の公理(出発点)を定めること
②既存の数学を全て集合の話に翻訳すること
である。
もちろんせっかく身体的に納得できる集合論を採用したのだから、①では身体的な推論が行えるような公理をセッティングするべきだ。容器は合併や共通部分をとることができ、容器の包含関係は推移律を満たすべきだろう。
今日は①について深掘り、明日は②について深掘る。

★Hiroto

【①の深掘り】
これらが我々が現在使用している集合論の公理一覧です。ぱっと見意味がわからないと思いますので、適宜解説を加えます。

公理集その1
公理集その2

★Hiroto

◎大前提
・全ての主語は「集合」です。a∈bとは、「集合aを集合bが要素として含む」ということであり、個体そのものに「要素」というラベリングがなされることはありません。全ては対等に集合です。
・論理の記号をまとめます。
→:ならば
∨:または
∧:かつ
¬:でない
∀:任意の(全称記号)
∃:ある(存在記号)
=:等しい

★Hiroto

この公理たちは独立ではないです。他のものたちから他のが導かれたりします。公理を最小にすることよりも、使いやすさを重視しています。導かれることを公理に付け加えても数学的には問題ありません(矛盾は生じません)。ただ美的感覚やモラルに少し反するだけです。
○外延性公理
「2つの集合は、含む要素がぴったり同じなら集合として等しい」という主張を記号で表したものです。
ここで気をつけるべきは、集合が等しいことの定義を述べているわけではないということです。「等しい」とはある種の無定義語で、集合論の前の「論理」の話で導入されています。集合論には従属しない概念ということです。
その意味で、この公理は=と∈の織りなす関係に制限を加える公理と思えます。
○分出公理
長ったらしいですね。「『集合に包まれていてなおかつ所与の条件を満たすもの全体』をぴったり要素として含む集合が存在する」と言っています。
もっと噛み砕けば、「条件を用意すると、それを満たすものすべてをぴったり集めた集合が存在する」となりますが、ここで端折った「集合に包まれて」は非常に重要です。これがないとラッセルのパラドックスが発生して、矛盾して、終わります。この制限は、サイズ的に大き過ぎるものは集合として認めない、という類の制限になります。
また、この公理から「共通部分をとる」という操作が正当化されます。直感的操作ができてほしいという要請に適っています。
○対公理
「2つの集合を用意したら、その2つを要素として含む集合が存在する」と言っています。これも直感的操作の正当性を担保していますね。○和集合公理
その名の通り、「集合を用意したら、その要素全体の和集合(合併)が存在する」というものです。「和集合をとる」という操作の正当性を担保してくれます。
○冪集合公理
「集合を用意したら、その部分集合全体を要素として含む集合が存在する」と言っています。部分集合全体を集めても、サイズ的に大き過ぎる(集合とすると矛盾する)とはみなさないということですね。この保証はデカいです。
○無限公理
「要素を無限個含む集合が存在する」というものです。無限個というのも大事ですが、この公理系ではまだ集合の存在すら仮定していないため、ここで初めて何かしらの集合の存在が保証されます。別に「集合が存在する」という公理を付け加えても構いません。
本質的には、無限個の要素を含むことを許していることが重要です。
○選択公理
厄介です。「集合たちから、それぞれ一つずつ要素を指定して取ってくることができる」と言っています。当たり前のようですが、実は他の公理たちから導こうとすると頓挫することがわかります。ただこれだけかなり他のに比べて浮いているので、これを認めない流儀の人もいたりします。
○基礎の公理
「空集合でなければ、何かしらの要素がその中に存在し、他の要素に含まれることがない」と言っています。少しテクニカルな公理ですが、集合論の原始的な議論ですごく使えます。それらを既知とする普通の数学の立場ではこれ単体で役立つ場面は少ないです。
○置換公理
「集合を用意する。その集合の要素一つ一つがそれぞれ何かしらの一つの集合に対応してるとすれば、その対応した集合全体を集めた集合が存在する」と言っています。
「集合から関数めいたものを考えた際、その値域は集合になる(大き過ぎない)」とより噛み砕けます。

★Hiroto

我々の知っている(と思っている)概念の組み上げストーリー無限公理によって、とりあえず集合の存在が担保される

分出公理によって、その集合に包まれてなおかつ「その集合に包まれない」もの全体(そんなものはない)を集めた集合が考えられる。空集合の存在の担保!

対の公理によって、要素数1コ、2コ、、、の集合の存在が担保される。これらを0,1,2,...と名づけることで、自然数を作れる。(全ては集合なのだから、当然数だって集合だ。)

無限公理と分出公理によって、すべての自然数をぴったり要素として含む集合が作れる。自然数全体の集合の存在

適切な写像を考え、演算を定義し、同値類で割ることで整数全体、有理数全体の集合を作れる!

有理点列を考え、適切に同値類で割ることで実数全体の集合を、直積を考えて複素数全体の集合を作れる!

実数全体集合の直積を考え、適切に冪集合の部分集合を考え(位相を考え)、我々の空間のモデル化であるユークリッド空間が作れる!



・ 

★Hiroto

「A⊂B⊂CならA⊂C」というのも、形式的には「→の性質」に還元されるのですが、我々は感覚的に「包まれてるものに包まれてるなら、それは包まれてるだろ」と理解できるため、そこらへんで議論を非常にショートカットできます。これが感覚的にスッと納得できるフォーマットを利用するメリットの一つです。

Day26

★Hiroto

【第5章 ZFC翻訳者への道】
全てを「含む」にしてしまえ、と昨日は言い放った。しかし、そんなことが可能なのだろうか?数学の世の中には多様な述語があるはずで、それを全て「含む」で語ろうだなんて、少し傲慢なんじゃあなかろうか?
ここでもなぜ「集合論」を選んだのかが効いてくる。
例えば「aが条件pを満たす」という文を考える。「条件pを満たす」が述語である。
これを集合の話に無理やりするなら、
「aが『条件pを満たすものすべての集合』に要素として含まれる」とできる。つまり、「性質を満たすものすべての集合」なるものを無理やりとり、それに「含まれる」と統一的に言ってしまうのである。性質を満たすものすべてを取ってくるような集合が存在するかどうかについては、昨日の「分出公理」を眺めてほしい。集合の内包的記法を(制限付きで)保証している。...とはいえこれは初等的な解釈(なぜ人間が集合論に辿り着いたか)の話であり、より形式的には「条件pを満たす」という内容に相当する形式的内容を、「含む」のみで書き直さなければならない。これがかなり大変である。今日以降で、その具体的な例を見る。(今日はかなり大事な用事が入ってしまっているため、明日以降にご期待ください。ストーリーの大枠としては今日の前半の内容までですべてです。読み直してもう一度集合論のありがたみを感じてみてください。)

■Hiroto

Q4.3. 明日以降で僕にZFCへの翻訳をしてほしい数学の単語や分野や命題を募集します。
例えば、、、
・「写像」ってなんすか?
・「直積」ってなんすか?
・「共通部分・合併」ってなんすか?
・「順序対」ってなんすか?
とかです。ここに挙げたものの中で特にこれがどう表されるのか見てみたいというのでも大歓迎です。よろしくお願いします。

Day27

■Hiroto

投稿は今日の深夜または明日になります。そこまでにQ4.3.のアンサーがあればよろしくお願いします。

■Naokimen

Q4.3「テンソル積」ってなんすか?

Day28

■Tsubo

「位相」もしくは「位相空間」ってなんですか?(学部生の頃内田位相論を読みましたけど結局わかんなかった記憶が…)

★Hiroto

結局、「写像」とか「直積」を作れると、位相だとかテンソルだとか、そんなのは普通に扱えることがわかります。その基礎的なところさえ人工的にZFCで作って仕舞えばあとは素朴に扱えるわけで、その意味で万人が基礎論をやるわけではないということもわかります。ちょっと結構この資料作るの苦労して遅くなってしまいました。ごめんなさい。

★Hiroto

【まとめ】
・集合論はやっぱり高校までの数学だと浮いていて、やる意味が本質的にわからない。
・公理主義的な視点で相対化された数学を統一化しようと試みたとき、ふさわしいのが集合論(容器のスキーマ)になる。
・今まで個別に行われてきた数学は全て集合論に埋め込めて、集合論での操作は容器のスキーマを反映しているためある程度直感的に行なえる。
・容器のスキーマをきちんと矛盾なく反映するためにも、公理は工夫して作られてきた。ZFCとは現在の標準的な集合論の公理系のことである。
○集合論がなぜ重要か。それは全ての数学を、統一的かつ認知的に自然な形で表現できるからだ。高校ではそこがいまいち強調されずに導入だけがなされる。
◎さあ、数学は人間から離れて存在するだろうか。今まで見てきたように、集合論が採用された背景にはバリバリ人間の認知が絡んでいた。それを踏まえてアンケートに答えていただこう。

数学のロマンへの信仰度

:1: すごく信じている
:2: 少し信じている    2
@Takuma Kogawa, @YY 12
:3: どちらでもない    1
@イスツクエ
:4: 少し疑っている    5
@蜆一朗, @チクシュルーブ隕石, @Naokimen, @ていりふびに, @Yujin
:5: すごく疑っている    4
@Hiroto, @コバ, @イヤープラグさざなみ, @ゆーろっぷ
Created by @Hiroto with /poll

前と変えたなら変えた理由を、変えなかったなら変えなかった理由を、それぞれ教えていただけると助かります。

★Hiroto

日曜日の土壇場で駆け込む形になってすみません!!
1か月にわたり、4人の紡いだ物語を楽しんでいただけていたなら幸いです。感想や最後のアンケの理由などは、掲示板の延長戦の方によろしくお願いいたします。それではまた次の哲学部・数学部それぞれのWSでお会いしましょう!
コバさん、イヤープラグさざなみさん、ていりふびにさん、ご協力ありがとうございました!!〜完〜

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