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東アジアの文学



どうしようもない恐怖に苛まれた時、例えば、周りにいる人を信じられなくなった時、果たして私はどんな気持ちになって、どうなるのか想像してみた。

出来なかった。

これは決して私の想像力が貧相であったからではない。

そもそも未体験のものについて想像して考えていくのが無茶なのである。

私は彼氏の一人もいなければ、家族内の力関係は春の野に舞うタンポポの綿毛よりもか弱い。実の兄さえも虜にする色気も美しさもなければ国を治めるようなカリスマ性に溢れた有能な人間でももちろんない。

だいたい、大国の王たちに通ずる点があるような人間であれば、エッセイの一本や二本チョチョッと出して早期加点をたんまり稼いでいるはずだし、色気があれば男子学生が嬉々として我先にと代筆を申し出るだろう。

こんな課題をお出しになられるなんて、F先生も斉の襄公には及ばないがなかなか悪いお人である。

そう、斉の襄公である。

先ほども書いたが、史記の登場人物は魅力的で個性豊か。

恐れ多くて気軽に共通点など感じていられないし、どう生きるべきかなんてロールモデルにするにしてはスケールがデカ過ぎる。F先生は学生を困らせるプロフェッショナルとしてNHKの仕事の流儀に出るべき。

しかし、そんな錚々たる面子の中で唯一、僭越ながらこの私めがお気持ちをお汲みできる人物がいらっしゃる。

伝統の大国、斉を治めるデキる男。
襄公である。

私はかれこれ三年ほど前、まだ華の女子高生であった頃に、かの有名な太宰治の『走れメロス』をモチーフにした演劇を作り、実際に役者として演じた。

あくまでもモチーフであるから、メロスもセリヌンティウスもさして出てこないメロス風味のある芝居だ。私が演じた王の尺に至ってはなんと三十秒あるかないかである。思い出すだけでも情けなくて涙が出そうだ。 だが、涙が出るほどのチョイ役であれども役は役。

原作を暗記するまで読み、想像するのである。

もし私が王だったら、邪智暴虐な、人を臣下を信じることができない王だったなら、どんな気持ちになって、どうなるのか、想像したのである。


斉の襄公は走れメロスに登場する王、暴君ディオニスとよく似ているように思う。

一国を治める有能な王でありながら、家族や臣下さえも含めた周りの人々を信じられず、不信感から処刑を繰り返してしまうと描かれている。ひょっとして双子かな。

そんな襄公によく似た暴君ディオニスの気持ちを、今も昔も変わらず経験していないことは想像できないとつっぱねる私がどう想像したか。


確か、父を重ねて想像していた。

この父というのは私の実の父ではなく、実の父が亡くなった後にやってきた新しい父、つまり継父だ。

実の父がかなり年上で落ち着きがあったのに対して、母よりも若い継父は、気の良い人だがちょっぴり未熟であるように子どもながらに見ていた。

よく怒鳴り、物を壊す人だった。

めちゃめちゃ怖かった。あまりにも怖過ぎて、彼がどうして怒っているのか考えたこともそうする余裕もなかった。

怒ったり暴れた後は、一人で隅に丸まってよく泣いていた。


大人も成長するけれど、子どものその速度には、かなわない。

私は少しずつ大人になって、暴れては泣く父の姿を見てなんとなく、なんとなく父の気持ちが分かったのである。


不思議な話で、経験なぞしていないのに、その小さく丸まった背中を、抑えた嗚咽を見て聞いているうちに、ジワジワと気持ちが侵食するように分かったのである。

父という家族の支えとなる柱であるけれど、どうも連れ子の娘のことが分からないし、信じきれない、だんだん妻の気持ちまでも分からなくなって、怖くなる。

私が父に対して恐怖を感じていると同時に、父も得体の知れない娘にそして読み取れない妻に恐怖を抱いていたのである。

『疑うのが正当な心構えだ』

『人の心はあてにならない』

『信じてはならぬ』

と、暴君ディオニスは『走れメロス』の中でこう言っている。

これは襄公にも通じている。

どうして疑うのか、それは信じられないからである。

信じられない、だから相手の言っていることが果たして本当なのか、実は嘘ではないかと疑い出す。

では、どうして信じられないのか。
それは分からないから。
なんだかよく分からないものや人を信じて預けるようなことは普通、誰であってもしない。
謎に包まれた集団に全財産貸すのと同じである。
先生貸します?私財布に2000円しか入ってないけど絶対貸さないです。たとえ10億円持っててもびた一文貸しません。

話が逸れた。

襄公も暴君ディオニスも父も、臣下が家族が、そして私が、どんな気持ちでいるか分からないから信じることが出来ず、疑い、恐れるのだと思う。

そして、その恐怖は日に日に肥大してゆき、暴力的な行動へ走らせる。

斉の襄公と暴君ディオニスと、私の父はよく似ているように思う。

責任ある長であるが、近しい人を信じられず、恐れて、それゆえに力をふりかざしてしまう。

私は、襄公と暴君ディオニスはまるで双子だと書いた。

しかし、たとえ双子であっても三つ子であっても、当たり前だがその先の人生はそれぞれ違う。

襄公は冷遇していた無知によるクーデターによって去るが、暴君ディオニスは、メロスとセリヌンティウスの友情に深く感動、改心している。

襄公と暴君ディオニスの違いは、人を信じようとする、改心するきっかけがあったか否かである。

私の父はどうなるのだろうか。

私は、父にきっかけを、いや信じてもらえる人になることが暴君ディオニスへの道だと思う。

それと同時に、私も人と向き合う時に相手を理解しようという姿勢を忘れずにいようと思う。

たとえ、経験していなくとも。

大事なことだからこそ難しいのかもしれない。

けれども、たとえどんなに難しくとも、私は父を襄公にしたくないし、させないように頑張っていきたいと思う。





ほんとうは、はやく痛い目、みてほしい。






東アジアの文学 提出課題
授業内で取り扱った史記の登場人物より、自分に通ずる点を見つけ、これからどうしていくべきか考え、エッセイにして提出せよ

加筆修正アリ
2018.9.20

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