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トウカイテイオー【おそらく聞いたことがない話】

1991年の競馬界の話題の中心にいたのは、トウカイテイオーという一頭の若駒だった。レース中一度も鞭を使われない楽勝つづきのままでデビューから無傷の4連勝を飾り、同世代の強豪たちがひしめくクラッシックロードに駒を進める。そして初戦の皐月賞を快勝、あっさりとGⅠ競走を制した。さらに次走、日本競馬最高峰のレース、日本ダービーにおいても、後続に3馬身の差をつけ圧勝。 人々は、トウカイテイオーの鮮やかな勝ちっぷりに賞賛を送った。競馬ファンは言った。「まるで父親の生き写しだ」

トウカイテイオーの父は、「皇帝」と言われ、日本競馬史上最強馬との誉れ高い、シンボリルドルフである。ダービーを制覇した時点での競走成績は、ルドルフ、テイオーともに6戦無敗。ダービーを無敗で制した父子は、現在に至ってもルドルフとテイオーだけである。また、トウカイテイオーの母系は名牝久友より始まる日本伝統の血統であり、叔母にオークスを勝ったトウカイローマンがいるという良血。「トウカイ」の冠名をもつ馬主、内村正則が長年にわたり心血を注いで育てた血統が、まさにトウカイテイオーとなって結実したのだった。

そしてなによりトウカイテイオー自身の才能。幼少の頃に牧場の柵をジャンプで飛び越えていたという並外れた柔軟性と騎手の指示に即座に対応できる賢さ、レースセンス。後年、父ルドルフの相棒でもあった名騎手、岡部幸雄は、テイオーを「地の果てまで走っていきそうな馬」と言った。おまけに大きな流星を冠する品のある顔立ち。まさにトウカイテイオーはサラブレッド中のサラブレッド。しかし、栄光のダービーののち、トウカイテイオーは父ルドルフとは異なった道を歩んでいくこととなる。ダービーのレース中に、左後脚の骨が折れていたのだった。

ルドルフは大きな怪我もなく競走馬としてのキャリアを全うし、堅実無比の成績を残した馬であったが、息子のトウカイテイオーは、あらゆる競走能力で父に匹敵しながらも、唯一脚の丈夫さだけは受け継いでいなかった。この骨折によって、勝利は確実と目されていた菊花賞への出走は叶わず、クラシック三冠達成の道は絶たれてしまう。トウカイテイオーの調教師、松元省一は、骨折の原因として、並外れた柔軟性がフォームを大きくし、脚が地面につく際の衝撃が大きくなってしまうことを指摘、「ボクシングのハードパンチャーほど拳の怪我が多いというのと同じ」と語った。諸刃の剣。最大の武器が皮肉にも骨折の原因ともなっていたということだ。

コンディションの維持の難しさを露呈したトウカイテイオーは、長期の休養のすえ、ダービーの翌年に復帰したものの、春の天皇賞で生涯初の敗戦を喫する。この戦いは、テイオーと、ひとつ年上の強豪、メジロマックイーンという二頭の勝負が注目を集め、「世紀の対決」と持てはやされた。マックイーンは前評判どおりの強さを発揮して優勝、テイオーは5着に沈んだ。そしてレースの数日後、再度の骨折が明らかとなり、テイオーは再びターフから姿を消した。 

そして同年秋に再度復帰。骨折を繰り返すテイオーには、まともに走れるのか、という猜疑が向けられていた。案の定、復帰戦の天皇賞(秋)は、7着に大敗、この時点でテイオーはかつての名声を失うこととなった。その1ヶ月後、国際G1のジャパンカップに出走するも、5番人気という低い評価に甘んずるより他なかった。もはや終わった馬とみなされており、レースが始まっても大きな注目を浴びることもなかった。しかし、最終コーナーでするすると順位をあげて先団にとりつき、オーストラリアから参戦したナチュラリズムとの火の出るようなマッチレースを制して真っ先にゴールへとびこんだのは、まぎれもなくトウカイテイオーだった。やはり、コンディションさえ保てれば並の馬ではないのだ。

不幸中の幸い、と言えるかどうかはわからないが、トウカイテイオーは競馬ファンから熱狂的な支持をを集める馬となっていた。父シンボリルドルフについては「強すぎて応援したくない」というアンチファンも多くいたのだ。天賦の才能を持ちながら、挫折を重ね、復活を果たしたトウカイテイオーのキャリアが、いつしか濃厚なストーリーを形づくっていた。

その年の暮れ。中山競馬場で行われるグランプリ、有馬記念に駒を進めたトウカイテイオーは、ジャパンカップの勝利から一転、後方からまったく動けず、11着という惨敗を喫する。そののち、左トウ骨剥離骨折と3度目の左脚の骨折を発症。再び栄光の座を蹴落とされることとなった。もはや再起不能かと噂されていたトウカイテイオーがターフに帰ってきたのは1年後。昨年大敗した有馬記念だった。

骨折で1年の休養を経た馬が、ぶっつけ本番でグランプリに挑むというのは前代未聞の試みであった。しかもガラスの脚のトウカイテイオーである。かろうじて4番人気となっていたものの、内実はファンによる応援馬券という意味合いが強かった。評論家による見立ても辛辣で、もはや勝負云々というよりも、無事にコースを回ってこられたらそれで構わない、といった態であった。

スポットライトを浴びていたのは、年下のホープ、ビワハヤヒデ。デビューからぐんぐん実力をあげ、その年の秋にはテイオーが出走することができなかったクラッシック最後の一冠、菊花賞を快勝していた。目下絶好調なのだ。誰がどう見ても、この有馬記念では、テイオーからビワハヤヒデへ、スターホースの新旧交代がなされるはずだった。実際、レースが始まると、好ポジションにつけたビワハヤヒデが、余力たっぷりに最後の直線で抜け出しを計る。あらたなスターがゴールを駆け抜けようとしたそのとき、外から一頭の馬がするすると並びかけた。 

ゴール前、ビワハヤヒデに追いすがったのは、ほかならぬトウカイテイオーだった。そしてそのままビワハヤヒデを競り落とし、真っ先にゴール板を駆け抜けたのだった。競馬場に、15万人の観衆の地鳴りのような声援が響いた。実況を担当したアナウンサーは、「奇跡の復活」と喉をからして叫んだ。コンビを組んだ田原成貴騎手は憚ることなく涙を流し「この勝利は、日本競馬の常識を覆したトウカイテイオー、彼自身の勝利です。彼を褒めてやって下さい」と語った。これが1993年の年の瀬の中山競馬場で起こった出来事である。トウカイテイオー生涯最後のレースである。トウカイテイオーの調教師、松元は、次のようにも言っている。 

「(故障を誘発しかねない)そのフォームゆえにあれだけの成績を残せたとも言えるわけです」

骨折を経たあとのトウカイテイオーは、後続を引き離して勝つのではなく、マッチレースに持ち込んで、相手をねじ伏せるような泥臭い勝ち方をするようになった。生涯成績は12戦9勝。G1は皐月賞、日本ダービー、ジャパンカップ、有馬記念の4つを制した。父の7つには及ばなかったが、その劇的な走りの印象は強く、1995年、顕彰馬に選出されている。2013年8月30日、25歳のトウカイテイオーは社台スタリオンステーションの馬房にて絶息。心不全だった。

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