ブランダム意味論に対するミリカンによる評価

最近白川晋太郎さんの『ブランダム 推論主義の哲学』を読んだ。
実によくできた本で、推論主義に限らず意味論のありかたについて多く学ぶことができた。

この本の注の記述によると、セラーズに学び影響を受けた哲学者は多く存在する(そしてブランダムとミリカンもそれに含まれる)が、その中で規範の自然主義的還元可能性をめぐる対立があり、左派と右派に分かれているそうである。その分類では、ブランダムはセラーズ左派、ミリカンはセラーズ右派とされる。
実際ブランダムの意味論は、一般的な分類レッテルを当てはめると、
(1)反表象主義 (2)反自然主義 (3)全体論
ということになるが、ミリカンは上の(1)(2)(3)について全てブランダムの反対側である。

自分はミリカンファンと言うか、正直言ってほとんど信者なので、そうするとブランダムに対してはアンチになるはずで、白川さんの本でも第4部の形而上学(?)は全く受け付けなかったが、それ以外の1~3部は内容への賛成反対に関係なくストレスなく読めた。

ミリカンには、自分自身の意味論をセラーズやブランダムの意味論と比較し、相違点や共通点について論じた文章がある。
(『Language:A Biological Model』(2005) 4.The Son and the Daughter:On Sellars,Brandom and Millikan)
私にはセラーズやブランダムを直接読む能力がないが、白川さんの本のおかげでブランダムについてある程度知識が得られたので、上記ミリカン論文も何とか読めた。

以下の文章は、白川さんの本を助けとして、上記ミリカン論文で理解した内容の自分なりの整理である。
ブランダム意味論を特徴づける4つの中心的主張を項目としてピックアップし、それぞれに対するミリカンによる評価を自分の言葉で書いた。
(なお、ブランダムについての記述などに、白川さんの本からの自由な形での引用を含んでいます)

1.反表象主義

表象主義的な意味論とは、言葉と世界の表象関係に基づいて意味を与えようという立場である。
ブランダムの推論主義意味論は、言葉と世界の表象関係ではなく、言葉同士の推論関係に基づいて意味を与えようとするので、表象主義ではない。
ローティおよびブランダムによると、「言語と世界の対応」という表象主義的図式では、その対応の正しさをどうやって確認あるいは保証できるのかという懐疑論に対応できない。表象主義的な意味論は懐疑論に応答しようとして、誤りえない観察言明のような特権的表象を要求するはめになる。
そして、そのような特権的表象はセラーズおよびクワインによって決定的に否定されている。
ブランダム意味論は、以上のような理由で反表象主義を支持する。

一方、ミリカン意味論は記号の一般理論の一部であり、表象主義と言ってよい。ミリカンにとって言語は様々な慣習的パターンの集積であり、協調機能を本質とするが、「世界のあり方に合わせる形で聞き手を導く」というやり方がその機能実現方式の中心にあるので、表象主義と言える。
では、ブランダムが表象主義の不都合な認識論的帰結とする「懐疑論」についてはどう考えるのか。

ミリカンに言わせると、懐疑論など気にする必要はない。誤りえない基礎づけ命題など存在しないし必要でもないし、懐疑論に対応しようとすること自体間違いである。表象が多少間違うことがあっても、表象を利用する認知システムがトータルで有益なら十分である。表象利用にあたって、間違いが許されない重要な場面ではより注意深く検討し証拠を集めたりするだろうが、それでも間違ってしまうことはありうる。しかし、もしも言語や知覚のような表象システムがトータルで機能を果たせないなら、選択過程で淘汰されとっくに消えていたはずである。

このような進化論的枠組みはミリカンの意味論の基本であり、生物学的あるいは目的意味論と呼ばれる。
一般に自然科学も「誤りがありえず絶対正しい」ことなど求めない。
表象は世界の像あるいは映しであるが、もちろん必要に応じた特定の側面だけの部分的な映しに過ぎないし、また、間違う(=表象システムの設計通りに映さない)可能性も常にあるが、それは単に当然の事実である。
例えば時計(時刻表象)はたまには故障することがあっても無いよりは全然ましであるが、それと同程度の話に過ぎない。
そういうわけで、「心と世界の断絶を作る」などというような懐疑論問題に関わる限りでの反表象主義は、ミリカンには全く評価されない。

2.意味の規範性

言葉には公共的な側面があり、他者に何かを伝え理解してもらうためには、自分勝手に言葉に意味を与えることはできない。例えば「犬」という言葉で猫を意味することはできない。文の意味構造を定める文法(統語標識)や、いわゆる機能語(接続詞や英語前置詞・日本語助詞など)についても同様である。
もちろん、記号と意味との接続は、ソシュールが言うように恣意的で、言わば約束事だが、どの約束事つまり意味論的規則を利用するかについて、話し手聞き手が合意済みという前提では、ある言葉が何を意味するか、あるいはどうすれば規則に従ったことになるかは、個人の自由になることではない。ここに意味の規範性が存在する。
例えば動物が人間の言葉に対して規則的に反応する傾向性を持つようになったとしても、それは人間が意味を理解して(=意味論的規則に従って)反応するのとは全く異なる。つまり意味の規範性は規則性や傾向性に還元できない。文への真偽値割り当てについても同様で、「全員が正しいと考えているが実際は正しくない」というのは語義矛盾では全くない。規範性は多数派の主観に還元できない客観性を持つ。

以上のブランダムの考え方には、ミリカンは完全に同意している。
例えば、規則に従うことに関する規範性を「傾向性を制御しようとする傾向性」のように、最終的には事実レベルに還元するセラーズに反対し、このような還元を不可とするブランダムを支持する。

ただし、規範性に対する2人の捉え方は全く異なる。
ブランダムは規範性を、それを受容し引き受ける個人のありかた(規範的態度)に現れる原初的事実と考える。
一方ミリカンは、表象システムの設計仕様・設計目的に由来するものと考える。もちろん、言語や認知システムは誰かの意図的設計の産物ではないが、広義の進化論的枠組みで見ると、慣習的言語や個人の言語能力はそれぞれ複製を繰り返し、様々なレベルの選択にさらされ、コミュニケーションの道具あるいは能力として、精巧な設計物同様の存在となる。この点は、眼など生物器官と同様で、機能・設計・目的の自然主義的かつ包括的な概念によって、言語や意味等に関する規範性も理解される。(※ちなみに、このような考え方をミリカンと共有する最も有名な哲学者はデネットである)

なお白川さんは、表象主義的意味論の最大の弱点を「言語や意味の規範性が説明されない」ことだとして、代表的例とされる「意味の指示説」「意味の検証説」「真理条件意味論」それぞれに対してこの観点から批判している。ミリカンの目的意味論はこのような批判に対する表象主義の側からの一つの答えと言える。

3.規範の社会性

ブランダムは規範を個人の規範的態度に現れそれ以上還元できない事実と考えるが、それは人々の、コミットメントを引き受けたり資格を認めたりというやりとりに現れるような、本質的に社会的なものであると考えている。
白川さんも「規範性とは社会的に成立するものであり、他者とのやりとりにおいて問題になるもの」と、(表象主義批判の文脈で)当然のように書いている。

しかしミリカンの、目的意味論に基づくより一般的な規範概念にとっては、社会性は本質的でない。
もちろん、ブランダムとミリカンは理論的関心の持ち方あるいは重点が異なるので、ブランダムを批判しているわけではなく、異なる見方の提示に過ぎないとも言える。
今問題としている、意味に関する規範あるいは概念的規範について言うと、
それが社会的言語実践に由来するというブランダムの主張は後期ウィトゲンシュタインから引き継がれた考え方である。ミリカンの観点からも、慣習的言語はコミュニケーションの道具として、従って協調機能によって選択されてきたことは事実で、それは本質的に社会的であるといってよい。しかし慣習的言語を利用する個人の認知システム一般についてはそうではない。それは具体的には、知覚や概念など表象を利用し行為を制御するシステムのことである。

人間が他の動物とも共有する原初的な表象としては、アフォーダンス知覚が挙げられる。それは知覚行為サイクルを形成する動物の内部状態である。
例えば階段の知覚は、階段の上り下り行為を導くような、極めて精密な表象である。お茶の入ったコップの知覚も同様で、それらは精密に設計された表象システムにより生産され行為を導く。アフォーダンス知覚は今ここで行為を導く表象であり、表象を利用する行為制御システムが想定する規則に従って、表象が対象の位置形状などを正しく写像している場合のみ行為を適切に導くよう設計されている。この表象の「正しさ」は表象(生産)システムの設計に由来する規範性である。(個別の表象利用行為の成功失敗は、表象システムの自然選択に影響するが、成功失敗という結果が表象の「正しさ」に論理的に直結しているわけではない。この点は目的意味論という形の表象主義のポイントである。)

もちろん一般に人間の認知システムは、言語的なもの含め知覚を直ちに行動に利用するわけではない。例えば、言明を聞いて信念を形成したとしても、将来の利用に備えてとりあえず保持しておくだけのことが多い。しかし、その信念が推論や行動などどのように使われるにせよ、設計通りに機能するのは、設計で想定する正しい対応関係が世界との間に成り立っている場合のみである。このような、目的意味論による表象主義的規範解釈では、社会性は必須ではない。

例えば日記を個人専用の言語で書くなら、「砂糖」で塩を意味し「塩」で砂糖を意味してもそれは本人の勝手だが、その日記を自分の所有物管理など実用に使うなら、言葉(音声や文字)と意味(対象)の結びつきに一貫性がなければならず、そこに原初的規範性が生じる。

ミリカンは進化論的枠組みを前提し、人間を生物としての一般性の中で理解することに理論的関心の中心があるので、基本的には、個人の他者との交渉も特別視せず、世界との交渉の一部として捉える。例えば他者の発話も、様々な知覚的情報入力の中の一つであると考える。

もちろん人間が社会無しに生きられないのも事実である。
ミリカンも、概念の多くの部分は原理的に自分ひとりだけでは形成できない、という点で意味規範における社会の役割の重要性を認めている。電子のような理論的概念が天才的な単独個人だけで原理的に(?)開発可能かどうか私は知らないが、ミリカンの挙げる例はそれよりずっと基本的な、日付け付き出来事あるいは歴史的時間の概念である。これらに関わる言葉の使用の正しさは、独立に他の視点を持つ他者の存在なしには意味を与えられない、ということで、本質的に社会的と言える。自然主義的に言えば、社会の中でしか実質的な使用と選択圧が生じない。

4.語用論の優位

ブランダムは言語を考察するにあたって、意味論よりもまず語用論を先行させる。これはプラグマティズムおよび後期ウィトゲンシュタイン「意味の使用説」の精神を受け継ぐものである。
ブランダムの意味論は「言葉の意味は推論で果たす役割によって規定される」という推論的意味論であるが、この「推論」という規範的行為がどのように行われるかを、現実の言語使用を扱う「語用論」によってまず明らかにせねばならない。これが「語用論の優位」の具体的内容である。

このように、言語研究で語用論を基本に置くブランダムの考え方については、ミリカンも「全く同じ考え方を支持する」と高く評価している。
ブランダムの「表象主義批判」についても、それが「表象中心主義批判」つまり「使用よりも表象関係を基本とする考え方に対する批判」であるなら、それは正しい批判であると言っている。ブランダムの言う「語用論」は、ミリカン用語では「機能」に対応し、いずれも言語の現実の使用を意味する。ミリカンは表象主義者なので、「機能」とは表象システムの存続をもたらすような表象使用のことであるが、そのような使用がなければそもそも表象と対象との写像規則は存在しえないと考える。従って、使用が真理条件などの表象関係よりも基本的だというブランダムに全面的に同意する。また、他の動物はともかく人間に関しては、推論は表象の中心的使用の一つであるとして、推論主義意味論をかなり好意的に評価している。

実際ミリカンは、使用(機能)と切り離して真理条件を扱うような意味論を、いわば主要な敵として長年批判してきた。
『意味と目的の世界』p108に「フレーゲの意味の概念は、まず命題を表象し、そのあとでその命題に態度を付加するということを許容するような概念である。そのため、それは多大な損害をもたらした」と書いている。
「多大な損害」とは何かというと、指示表現同士の同一性主張や存在/非存在主張、あるいは内包的文脈(指示対象同一表現交換不可)をめぐる問題のことである。このような問題事例は、本来は通常の主張行為とは異なる使用(機能)というレベルで分析するのが正しい対応なのだが、多くの哲学者は誤って命題(真理条件的意味)のレベルで分析しようとしたため、フレーゲ的意味(Sinn)あるいは「内包」のような本来必要ない理論的対象が作り出され、言語哲学に多大な混乱を生み出したというのがミリカンの批判である。

いずれにせよ言語に関する使用第一主義が、ブランダムとミリカンの最重要の共有点である。


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