安心社会と信頼社会
超頭良さそうなタイトルになっちゃったんですけど、基本的に頭はすこぶる悪いです。
昨日、ハイパーリバ邸のおちあいさんと喋ってて、コルクラボの話題に上がってたらしい「安心と信頼」の話を教えてくれた
安心で成り立つ関係には「制約」がある。たとえば会社の雇用。
会社に勤めてたらちゃんとお給料が貰えるという「安心」があって、その条件で成り立っている。
これは色んなことに言えて、例えば飲食店。
500円のメニューを注文すれば、500円でちゃんと食事ができるし、それがわかっているから注文する。
これは飲食店と一個人が「安心」の関係で成り立っている。
これで、500円払ってもメニュー通りのものが出てこなかったらクレームになったり、もう2度と来てくれなくなったりする。
もちろん会社においても給料が支払われなければ社員はいなくなる。
これが「安心」で成り立つ社会。
じゃあ信頼社会ってなんなのかって言ったら、本当にそのままで「信頼」で成り立ってる状態の関係。
だから、先の結果が見えていなくても、信頼のある関係の中から生まれることの方が、「安心」という制約で繋がっていない分、生産性が高い。
たとえば、ぼくは板前だったので、ある程度料理ができる。
ただ、ぼくの料理はそれなりに美味いという「安心」に対して仕事を頂いた場合、ぼくは美味しい料理以外を提供できない。つまり、広がりがない。
これが信頼の場合だと、ぼく自信の人間に寄せられるものだから、料理に限らなくて済む。
こんなイメージだったと思う。
で、ぼくがこれから目指していきたいのはあきらかに信頼社会だ。
安心は結果で裏切ることによって成り立たなくなるのだろうけど、ぼくは人間としての自分が裏切ることで、関係が成り立たなくなるような社会の方が、居心地がいいのだと思う。
ぼくに「料理」を求めてくる人がいると、少し疲れる。
美味しい料理ならいくらでも作れる人がいるから。
でも、「ぼりが作った料理」を求められるのであればすごく嬉しい。
たぶん、コンテンツとか技術ではなく、ぼく自身に信頼を置かれている状態が好きだ。
この考え方は生きて行く上でまあまあ甘いのだろうとは思っているけど、そんな人生を実現したいなって思う。
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